日吉杯最終稿

演題『一人多票 ~死に票は議員の持ち票を弄ればなくしうる~』

この中に選挙に行ったことあるよ、という方はどのくらいいらっしゃいますか?
結構いらっしゃいますね。ここにいらっしゃる方は社会問題の解決を目指す方ですから、選挙に行くのも当然かもしれません。
(あまりいらっしゃいませんね。ここにいらっしゃる方は社会問題の解決を目指す方でしょうから選挙に行った方がいいと思いますが。)

選挙は社会問題の解決に至る為の殆ど唯一にして最大の方法です。
利己的な主体の活動では解決できない問題を政府が行う。
国民は政府の舵をとる為に選挙に行きます。
選挙に行かなければ社会問題解決の為のスタートラインにすら立てないのです。

と、言っても選挙に行かない人は行きませんから、行きたくなるような小話を一つ。
選挙に行くと2枚の投票用紙が貰えます。
この紙に候補者の名前を書いて折りたたんで投票箱に入れるのですが、
この紙、箱に入れた後、自然と開くようになっています。
箱に入れる前に紙から手を放すと見れますので是非投票しに行ってみてください。

と、言っても、選挙に行かない理由というのが正にその折りたたんで「投票しても元に戻ってしまうから」なんです。
どういう意味でしょう。
例えば、あなたは選挙に行って、候補者Aに投票しました。
結果候補者Aは当選した。
良かったですね。
では候補者Bに投票していたら?
結果は変わらず、候補者Aの当選でしょう。
選挙に行っても何も変わらないのです。
投票しても、投票してない元の状態に戻ってしまう。
選挙に行く意味がないから行かない。

本弁論の目的はこの無意味な選挙に終止符を打つための解決策・新しい選挙制度の提案・共有です。

現状ある選挙制度ではどうしてもこの問題は解決できなかった。
今まで選挙制度について沢山開発考案はされてきました

例えば小選挙区制 二回投票制 コンドルセ方式 シュルツ方式 ボルダ方式 比例代表制 ドント方式 サン=ラグ方式 単記非移譲式 完全連記制 などなど何十もの選挙制度が考案されてきました。

しかし、いずれにしてもこの”投票しても元に戻ってしまう”問題は解決できませんでした。
では、何故この問題が起きているのか。原因は何でしょう。

投票しても無駄になってしまうという問題は、言い換えればあなたの票が死に票になってしまうということを指します。
ここでは、死に票とは落選者に投票された分と当選者が当選するには必要ではなかった余りの票を指します。
先ほど述べた選挙制度では死に票を小さくすることは出来てもなくすことは出来ません。
でもそれは当然です。
私たちの代表を一人に絞る以上、どのように選んだって死に票は出てきます。
あれ?私達の代表を一人に絞るのは必要なことなんでしょうか?
もし不要だとすれば問題は解決するかもしれません。

そこで解決策を1点提示します。
選挙制度を変えるのです。
当選した議員の議会での持ち票を現在の1票から得票数に変えます。
大枠は以上です。
100万人がその議員に投票したならば、その議員は100万票を持つ。
各議決に100万票を投じていく。
そのような状態においては追加の1票に意味が出てきます。
勿論1票というのは非常に小さなものです。それだけでは当然社会を変えることは出来ない。
しかしながら、今までは我々の投票権は、議員が決まった時点で死に、それぞれの議決までは届かなかった。
その議決まで生きて届かなかった我々の意志を生きて議会まで届けることは確実に大きな意味を持ちます。

では、この制度について、議員の視点からも考えていきましょう。
今までは、当選に十分な支持者を持つ議員はこれ以上何もしてこなかった。
議員生命を守る為には必要なく、無駄だからです。
しかし、この制度のもとでは、そうではない。
さらなる1票が更なる力になるんです。
当選に必要ではなかった少数派の意見を取り入れるインセンティブを持ちます。
議員はより問題解決をしようとするでしょう。
今までは一人を当選させることが出来ない少数派の意見も多数派の議員によって救われうるのです。

勿論この解決策もこれだけでは大きな効果を得ることは出来ません。
そこで2点の修正をします。
1点目は「全国区にする」、2点目は「成り議員代を導入する」。

1点目です、全国区にする。
小選挙区というものは何を意味しているのか考える必要があります。
有権者の票を議員の1票に圧縮する為に区切っていました。
しかし、本政策では1票は圧縮せず1票のままだから区切る必要はありません。

むしろ一票の格差を助長させ、国民を分断するゲリマンダーを発生させてしまう選挙区は廃止してしまうべきです。


2点目です。成り議員代を導入する。
議員の持ち票を得票数とするこの政策では、特に議員となる条件は置かれていません。
しかし、議員が無限にいては議論は混乱を招くでしょう。
どこかで線引きはすべきです。
ですが、人数で線引きしてしまうと、少数派議員を追い出すために所謂クローン議員というものが増えてしまい本政策は最大限効果を発揮することは出来ません。
勿論それは現行よりかはマシですが、高みを目指したいものですね。

そこで成り議員代を導入します。
そこで導入するのが成り議員代です。
議員になるときに、得票数から何票かを支払う。
これを成り議員代と呼んでいます。

この成り議員代を導入すると更なる利点が生まれます。
議員の数を絞ることが出来ます。
議員を一人出すたびに持ち票が減っていきます。
減るぐらいなら最初から立候補させない。
大体同じ考えならば、代表をまとめてしまえば、無駄に、成り議員代を支払わずに済む。
そうすれば影響力をより大きく出来る。
今までは票の為にいる議員がいました
この議員を減らすことが出来るのです。
多数派の政党で起きたことは、少数派の政党でも置き得ます。
少数派の主張同士というのは必ずしも矛盾を引き起こすとは限りません。
ある法案に対して主張はしているが、他はどうでもいいと思っている人達はより自分の影響力を大きくするために結託するでしょう。
このような流れによって議員数は絞られるでしょう。

立候補者が減れば論点は分かりやすく纏まり、議員を選ぶコストは下がります。
さらに立候補者が十分に減れば落選してしまう候補は0になりえます。
これによって死票はなくなるのです。

以上の政策により、”投票しても元に戻ってしまう”現状は解決します。
投票した痕跡が残れば、今まで無駄に思えてきた選挙に行く人も出てきましょうし、自分には関係ないと思っていた政治に興味を起こす人も出てきましょう。
合理的無知というものがあります。調べるコストに見合う対価がなければ合理的に知らないことを選択することです。
今の選挙制度では、対価は限りなく0に近い。自らの票に影響力はないから考えて投票しないし、投票の結果を自分たちの選んだものだと思えない。熟慮も責任感もなければ民衆は愚かになる。衆愚政治に陥ってしまう。1票に影響力を持たせることが出来る

政府というのは国民に監視されて初めて機能します。
今回、私は新しい選挙制度を共有したにすぎません。
この制度の何が長所足りえて、何が短所で如何にして克服すべきか、若しくは捨て去るべきか。考えなければならないのは我々です。
今まで、自明とされてきた、議員の1票。これをなくすことで、国民一人一人が持つ一票の価値が確かなものになる。
元に戻らない投票を。
ご清聴ありがとうございました。

 

 

 


では、本政策がどのくらい合理的で公正であるのか、有名な基準を用いて考えてみましょう。
アローの定理というものがあります。これを全て満たすものが最も公正な制度であるが、そんなものは存在しないというものです。
そこでは4つの基準が挙げられています。
1つ目は非独裁性。誰か特定の人の意思だけに任されていないかという意味ですが、これは満たしています。
2つ目は普遍性。どんな時でも1つの結果が出るようになっているかという意味ですが、これも満たしています。
3つ目は無関係な選択肢からの独立性。泡沫候補が出てきたからといって結果が変わってしまわないかを意味していますが、これも満たしています。
最後は全会一致性。全員がこれがいいという時はそれを選ぶかという意味ですが、これも満たしてしまいました。

今までの選挙制度ではアローの定理を満たす選挙制度はなかった。しかしこの政策は満たしている。したがってこの選挙制度は今までのすべての選挙制度よりも公正な選挙をすることが出来ると言えます。

他に、コンコルド基準というものがあります。
それぞれ二つずつみていくとどの組み合わせでも勝っている選択肢があればそれを選ぶかというのがペア勝利といい
逆に負けている選択肢があればそれは選ばないかというのがペア敗北と言います。
本制度では全体をみるとこれらを満たしません。が、個人をみると満たしています。
何故なら、個々人にとってペア勝利である人を選んでるからです。
この点においてもこれまでの選挙制度よりも優れているといえます。

 

日吉杯原稿第二稿

演題『一人多票 ~死票は議員の持ち票を弄ればなくしうる~』

この中に選挙に行ったことあるよ、という方はどのくらいいらっしゃいますか?

結構いらっしゃいますね。ここにいらっしゃる方は問題解決を目指す方ですから、選挙に行くのも当然かもしれません。

(あまりいらっしゃいませんね。ここにいらっしゃる方は問題解決を目指す方でしょうから選挙に行った方がいいと思いますが。)

選挙は問題解決に至る為の殆ど唯一にして最大の方法です。

利己的な主体の活動では解決できない問題を政府が行う。

国民は政府の舵をとる為に選挙に行きます。

選挙に行かなければ問題解決の為のスタート地点にすら立てないのです。

と、言っても選挙に行かない人は行きませんから、行きたくなるような小話を一つ。

選挙に行くと2枚の投票用紙が貰えます。

この紙に候補者の名前を書いて折りたたんで投票箱に入れるのですが、

この紙、投票箱に入れた後、自然と開くようになっています。

投票箱に入れる前に折りたたんだ紙から手を放すと自然と開くのが見れますので是非投票しに行ってみてください。

と、言っても、選挙に行かない理由というのが正にその折りたたんで「投票しても元に戻ってしまうから」なんです。

どういう意味でしょう。

例えば、あなたは選挙に行って、候補者Aに投票しました。

結果候補者Aは当選した。

良かったですね。

では候補者Bに投票していたら?

結果は変わらず、候補者Aの当選でしょう。

選挙に行っても何も変わらないのです。

投票しても、投票してない元の状態に戻ってしまう。

選挙に行く意味がないから行かない。

現状の選挙制度ではどうしてもこの問題は解決できない。

現状の選挙制度では大きく二つの手法を取り入れています。

一つは小選挙区、もう一つは比例代表です。

小選挙区とは、それぞれが大体人数が同じぐらいになるように区切った場所ごとに、1人づつ議員を選ぶやり方です。

この方法は多数派が有利で安定した政治が出来るという長所が挙げられます。

短所として死票が多く出てしまい、民意と反する結果になり得るという短所があります。

死票とはここでは、落選した候補者の得票数と当選した候補者の最低限当選するのに必要な得票数を上回った数を指します。

比例代表とは、所属している党に投票してその得票数が多ければ議席数を多く、少なければ議席数を少なく得るようにするやり方です。

一見”比例”というぐらいですから、民意の比と議席数の比が一致してよさげな気がしますが、問題もあります。

党という単位で投票される比例代表は、必要最低限当選に必要な票を超えると他の党員の当選の為に回されます。

しかし、党は一枚岩ではありません。

異なる考えの党員が同じ党に所属するのは少なくない。

同じ党にいるからといって、異なる考えの人に票が回ってしまう

いずれにしてもこの”投票しても元に戻ってしまう”問題は解決できません。

では、何故この問題が起きているのか。原因は何か。

簡単な原因だったのです。

私達は私達の代表を一人選びその代表が私達の為に議会で1票を投じている。

選挙制度についての議論はこの代表をどのように選んでいくのかについてばかり論じられてきました。

論じられてこなかった、議会で投じられる一票、ここに原因があるのです。

もしこの議会で投じられる一票が、その議員の得票数であれば、死票は、当選した議員に無駄に投じられてきた死票はなくなると言えます。

投じられれば投じられるほどその議員の持ち票に加わるのですから。

一人一票の縛りがなければ票を得る為に沢山の人を用意する必要がなくなります。

支持している議員の代わりを用意する必要はないのです。

そこで解決策を1点提示します。

選挙制度を変えるのです。

当選した議員の議会での持ち票を現在の1票から得票数票に変えます。

大枠は以上です。

100万人がその議員に投票したならば、その議員は100万票を持つ。

各議決に100万票を投じていく。

そのような状態においては追加の1票に意味が出てきます。

勿論1票というのは非常に小さなものです。それだけでは当然社会を変えることは出来ない。

しかしながら、今までは我々の投票権は、議員が決まった時点で死に、それぞれの議決までは届かなかった。

その議決まで生きて届かなかった我々の意志を生きて議会まで届けることは確実に大きな意味を持ちます。

この制度について、議員の視点からも考えていきましょう。

今までは、当選に十分な支持者を持つ議員はこれ以上何もしなかった。

議員生命を守る為には必要なく、無駄だからです。

しかし、この制度のもとでは、そうではない。

さらなる1票が更なる力になるんです。

当選に必要ではなかった少数派の意見を取り入れるインセンティブを持ちます。

議員はより問題解決をしようとするでしょう。

今までは一人を当選させることが出来ない少数派の意見も多数派の議員によって救われうるのです。

勿論この解決策もこれだけでは大きな効果を得ることは出来ません。

そこで2点の修正をします。

1点目は「全国区にする」、2点目は「成り議員代を導入する」。

1点目、全国区にする。

小選挙区というものは何を意味しているのか考える必要があります。

有権者の票を議員の1票に圧縮する為に区切っていました。

しかし、この制度の下では圧縮する必要などなく、むしろ区切った時に発生する1票の格差が生まれてしまう選挙区は廃止すべきであると考えられます。

また、少数派というのは特定の地域に集中しているわけではなく、小選挙区において無視されます。

しかし、これは国の問題です。

国会で論じられるべきでしょう。

また、国会議員が地域の代表をする必要性がありません。

国会議員は勿論支持者層の為に動くべきではありますが、それ以上に国の為に動くべきです。

少なくとも地方VS都会という対立構図のもとでのみ議論されるべきところではありません。

以上の理由から選挙区を残してはこの制度は機能を低下するので、廃止すべきであると考えます。

2点目です。成り議員代を導入する。

議員の持ち票を得票数とするこの政策では、特に議員となる条件は置かれていません。

しかし、議員が無限にいては議論は混乱を招くでしょう。

どこかで線引きはすべきでしょう。

では例えば得票数が1000以下の候補者は議員になれないとしたらどうでしょう。

それでもいいと思います。

悪くはない。

しかし、得票数が1000票と1001票では得票数の差が1票しか変わらないのに1001票も開いてしまいました。

他ではこんな大きな差はありません。

気になるので直してみましょう。

そこで導入するのが成り議員代です。

議員になるときに、得票数から何票かを支払う。

これを成り議員代と呼んでいます。

これで落選者と当選者の差は小さくなりました。

この成り議員代を導入すると更なる利点が生まれます。

議員の数を絞ることが出来ます。

議員を一人出すたびに持ち票が減っていきます。

減るぐらいなら最初から立候補させない。

大体同じ考えならば、代表をまとめてしまえば、無駄に、成り議員代を支払う必要がなくなる。

そうすれば影響力をより大きく出来る。

今までは票の為にいる議員がいました

この議員を減らすことが出来るのです。

多数派の党で起きたことは、少数派の党でも置き得ます。

少数派の主張同士というのは必ずしも矛盾を引き起こすとは限りません。

ある法案に対して主張はしているが、他はどうでもいいと思っている人達はより自分の影響力を大きくするために結託するでしょう。

このような流れによって議員数は絞られるでしょう。

以上の政策により、”投票しても元に戻ってしまう”現状は解決します。

投票した痕跡が残れば、今まで無駄に思えてきた選挙に行く人も出てきましょうし、自分には関係ないと思っていた政治に興味を起こす人も出てきましょう。

政府というのは国民に監視されて初めて機能します。

死票として無視された問題は解決に向かう。

死票がなくなれば国民の意志は反映される。

勿論この制度案にも欠点というのはあります。どのような選挙制度にも何かしらの長所短所というのはあって何を捨てるのか、それを考えていくのは有権者である国民です。

今回、私は新しい選挙制度を共有したにすぎません。

これからです。

これからより良い制度を考えていきましょう。

ご清聴ありがとうございました。

演題『一人多票 ~死票は議員の持ち票を弄ればなくしうる~』

この中に選挙に行ったことあるよ、という方はどのくらいいらっしゃいますか?

結構いらっしゃいますね。ここにいらっしゃる方は問題解決を目指す方ですから、選挙に行くのも当然かもしれません。

(あまりいらっしゃいませんね。ここにいらっしゃる方は問題解決を目指す方でしょうから選挙に行った方がいいと思いますが。)

選挙は問題解決に至る為の殆ど唯一にして最大の方法です。

利己的な主体の活動では解決できない問題を政府が行う。

国民は政府の舵をとる為に選挙に行きます。

選挙に行かなければ問題解決の為のスタート地点にすら立てないのです。

と、言っても選挙に行かない人は行きませんから、行きたくなるような小話を一つ。

選挙に行くと2枚の投票用紙が貰えます。

この紙に候補者の名前を書いて折りたたんで投票箱に入れるのですが、

この紙、投票箱に入れた後、自然と開くようになっています。

投票箱に入れる前に折りたたんだ紙から手を放すと自然と開くのが見れますので是非投票しに行ってみてください。

と、言っても、選挙に行かない理由というのが正にその折りたたんで「投票しても元に戻ってしまうから」なんです。

どういう意味でしょう。

例えば、あなたは選挙に行って、候補者Aに投票しました。

結果候補者Aは当選した。

良かったですね。

では候補者Bに投票していたら?

結果は変わらず、候補者Aの当選でしょう。

選挙に行っても何も変わらないのです。

投票しても、投票してない元の状態に戻ってしまう。

選挙に行く意味がないから行かない。

現状の選挙制度ではどうしてもこの問題は解決できない。

現状の選挙制度では大きく二つの手法を取り入れています。

一つは小選挙区、もう一つは比例代表です。

小選挙区とは、それぞれが大体人数が同じぐらいになるように区切った場所ごとに、1人づつ議員を選ぶやり方です。

この方法は多数派が有利で安定した政治が出来るという長所が挙げられます。

短所として死票が多く出てしまい、民意と反する結果になり得るという短所があります。

死票とはここでは、落選した候補者の得票数と当選した候補者の最低限当選するのに必要な得票数を上回った数を指します。

比例代表とは、所属している党に投票してその得票数が多ければ議席数を多く、少なければ議席数を少なく得るようにするやり方です。

一見”比例”というぐらいですから、民意の比と議席数の比が一致してよさげな気がしますが、問題もあります。

党という単位で投票される比例代表は、必要最低限当選に必要な票を超えると他の党員の当選の為に回されます。

しかし、党は一枚岩ではありません。

異なる考えの党員が同じ党に所属するのは少なくない。

同じ党にいるからといって、異なる考えの人に票が回ってしまう

いずれにしてもこの”投票しても元に戻ってしまう”問題は解決できません。

では、何故この問題が起きているのか。原因は何か。

簡単な原因だったのです。

私達は私達の代表を一人選びその代表が私達の為に議会で1票を投じている。

選挙制度についての議論はこの代表をどのように選んでいくのかについてばかり論じられてきました。

論じられてこなかった、議会で投じられる一票、ここに原因があるのです。

もしこの議会で投じられる一票が、その議員の得票数であれば、死票は、当選した議員に無駄に投じられてきた死票はなくなると言えます。

投じられれば投じられるほどその議員の持ち票に加わるのですから。

一人一票の縛りがなければ票を得る為に沢山の人を用意する必要がなくなります。

支持している議員の代わりを用意する必要はないのです。

そこで解決策を1点提示します。

選挙制度を変えるのです。

当選した議員の議会での持ち票を現在の1票から得票数票に変えます。

大枠は以上です。

100万人がその議員に投票したならば、その議員は100万票を持つ。

各議決に100万票を投じていく。

そのような状態においては追加の1票に意味が出てきます。

勿論1票というのは非常に小さなものです。それだけでは当然社会を変えることは出来ない。

しかしながら、今までは我々の投票権は、議員が決まった時点で死に、それぞれの議決までは届かなかった。

その議決まで生きて届かなかった我々の意志を生きて議会まで届けることは確実に大きな意味を持ちます。

この制度について、議員の視点からも考えていきましょう。

今までは、当選に十分な支持者を持つ議員はこれ以上何もしなかった。

議員生命を守る為には必要なく、無駄だからです。

しかし、この制度のもとでは、そうではない。

さらなる1票が更なる力になるんです。

当選に必要ではなかった少数派の意見を取り入れるインセンティブを持ちます。

議員はより問題解決をしようとするでしょう。

今までは一人を当選させることが出来ない少数派の意見も多数派の議員によって救われうるのです。

勿論この解決策もこれだけでは大きな効果を得ることは出来ません。

そこで2点の修正をします。

1点目は「全国区にする」、2点目は「成り議員代を導入する」。

1点目、全国区にする。

小選挙区というものは何を意味しているのか考える必要があります。

有権者の票を議員の1票に圧縮する為に区切っていました。

しかし、この制度の下では圧縮する必要などなく、むしろ区切った時に発生する1票の格差が生まれてしまう選挙区は廃止すべきであると考えられます。

また、少数派というのは特定の地域に集中しているわけではなく、小選挙区において無視されます。

しかし、これは国の問題です。

国会で論じられるべきでしょう。

また、国会議員が地域の代表をする必要性がありません。

国会議員は勿論支持者層の為に動くべきではありますが、それ以上に国の為に動くべきです。

少なくとも地方VS都会という対立構図のもとでのみ議論されるべきところではありません。

以上の理由から選挙区を残してはこの制度は機能を低下するので、廃止すべきであると考えます。

2点目です。成り議員代を導入する。

議員の持ち票を得票数とするこの政策では、特に議員となる条件は置かれていません。

しかし、議員が無限にいては議論は混乱を招くでしょう。

どこかで線引きはすべきでしょう。

では例えば得票数が1000以下の候補者は議員になれないとしたらどうでしょう。

それでもいいと思います。

悪くはない。

しかし、得票数が1000票と1001票では得票数の差が1票しか変わらないのに1001票も開いてしまいました。

他ではこんな大きな差はありません。

気になるので直してみましょう。

そこで導入するのが成り議員代です。

議員になるときに、得票数から何票かを支払う。

これを成り議員代と呼んでいます。

これで落選者と当選者の差は小さくなりました。

この成り議員代を導入すると更なる利点が生まれます。

議員の数を絞ることが出来ます。

議員を一人出すたびに持ち票が減っていきます。

減るぐらいなら最初から立候補させない。

大体同じ考えならば、代表をまとめてしまえば、無駄に、成り議員代を支払う必要がなくなる。

そうすれば影響力をより大きく出来る。

今までは票の為にいる議員がいました

この議員を減らすことが出来るのです。

多数派の党で起きたことは、少数派の党でも置き得ます。

少数派の主張同士というのは必ずしも矛盾を引き起こすとは限りません。

ある法案に対して主張はしているが、他はどうでもいいと思っている人達はより自分の影響力を大きくするために結託するでしょう。

このような流れによって議員数は絞られるでしょう。

以上の政策により、”投票しても元に戻ってしまう”現状は解決します。

投票した痕跡が残れば、今まで無駄に思えてきた選挙に行く人も出てきましょうし、自分には関係ないと思っていた政治に興味を起こす人も出てきましょう。

政府というのは国民に監視されて初めて機能します。

死票として無視された問題は解決に向かう。

死票がなくなれば国民の意志は反映される。

勿論この制度案にも欠点というのはあります。どのような選挙制度にも何かしらの長所短所というのはあって何を捨てるのか、それを考えていくのは有権者である国民です。

今回、私は新しい選挙制度を共有したにすぎません。

これからです。

これからより良い制度を考えていきましょう。

ご清聴ありがとうございました。

途中で筆が止まっててどうすればいいんだよ

この中に選挙に行ったことあるよ、という方はどのくらいいらっしゃいますか?

 

結構いらっしゃいますね。ここにいらっしゃる方は問題解決を目指す方ですから、選挙に行くのも当然かもしれません。

(あまりいらっしゃいませんね。ここにいらっしゃる方は問題解決を目指す方でしょうから選挙に行った方がいいと思いますが。)

 

選挙は問題解決に至る為の殆ど唯一にして最大の方法 です。

利己的な主体の活動では解決できない問題を政府が行う。

国民は政府の舵をとる為に選挙に行きます。

選挙に行かなければ問題解決の為のスタート地点にすら立てないのです。

 

と、言っても選挙に行かない人は行きませんから、行きたくなるような小話を一つ。

選挙に行くと2枚の投票用紙が貰えます。

この紙に候補者の名前を書いて折りたたんで投票箱に入れるのですが、

この紙、投票箱に入れた後、自然と開くようになっています。

投票箱に入れる前に折りたたんだ紙から手を放すと自然と開くのが見れますので是非投票しに行ってみてください。

 

と、言っても、選挙に行かない理由というのが正にその折りたたんで「投票しても元に戻ってしまうから」なんです。

 

どういう意味でしょう。

例えば、あなたは選挙に行って、候補者Aに投票しました。

結果候補者Aは当選した。

良かったですね。

では候補者Bに投票していたら?

結果は変わらず、候補者Aの当選でしょう。

選挙に行っても何も変わらないのです。

投票しても、投票してない元の状態に戻ってしまう。

選挙に行く意味がないから行かない。

 

現状の選挙制度ではどうしてもこの問題は解決できない。

現状の選挙制度では大きく二つの手法を取り入れています。

一つは小選挙区、もう一つは比例代表です。

 

小選挙区とは、それぞれが大体人数が同じぐらいになるように区切った場所ごとに、1人づつ議員を選ぶやり方です。

この方法は多数派が有利で安定した政治が出来るという長所が挙げられます。

短所として死票が多く出てしまい、民意と反する結果になり得るという短所があります。

 

比例代表とは、所属している党に投票してその得票数が多ければ議席数を多く、少なければ議席数を少なく得るようにするやり方です。

一見”比例”というぐらいですから、民意の比と議席数の比が一致してよさげな気がしますが、問題もあります。

党という単位で投票される比例代表は、必要最低限当選に必要な票を超えると他の党員の当選の為に回されます。

しかし、党は一枚岩ではありません。

異なる考えの党員が同じ党に所属するのは少なくない。

同じ党にいるからといって異なる考えの人に票が回ってしまう

 

 

いずれにしてもこの”投票しても元に戻ってしまう”問題は解決できません。

 

では、何故この問題が起きているのか。

 

 

 

 こっから「そうだね。死票があるのが問題だね」

死票をなくすには1人1票が悪さしてるね」

ってのに繋げたいんだがいい流れが分からない

どうすればいいんだろう

人は経済人か

経済学では登場する人の特徴を経済人であるとしている。

経済人とは持っているモノを最大限に有効活用して、最高に幸福になる選択をしていく人のことを言う。

経済学がまず最初に直面しうる批判点と言えばこの、現実の人はそんなに合理的に動けないよね、である。

確かに現実の人の行動には無駄が多い。

では何故この違いが起きたのか。

答えはモデルが簡単過ぎるからである。

決して現実の人が合理的に動くことが出来ない訳ではないことを主張する。

現実の人は経済学が置く条件よりも複雑な条件の元で幸福を最大化している。

経済学の想定する持っているモノとは、物理的なモノに加え、知的財産や金、時間も含まれる概念である。

が、これらを使って幸福を最大化する過程で必要な、思考力や知識を経済学は無限に所持しているという前提を置いてしまっている。

ここが現実と大きくかけ離れている。

将棋を指すとき、例え竜王でさえも想定しうる全ての手を考慮に入れているわけではない。

人は自分の一挙手一投足がどんな結果をもたらすのかを知らない。

現実には有限な資源を無限資源として扱ってしまっている点が経済人と現実の人を異ならしめている点である。

現実の人は、どのくらい思考すれば幸福を最大化出来るのか"思考"する必要がある。その"思考"も幸福を最大化する為にどのくらい"思考"すればいいのか""思考""する必要が出てきてしまう。このようなメタ的な思考の層の頂点には全く思考しない層が存在する。

このような条件のもと、思考せず合理的な選択を取る為に予め何をするのかを決めてしまうという戦略を合理的にとっている。

要はランダムに行動を決めてしまい、結果的に合理的であった人が生き残るという進化論的な淘汰によって、合理的な選択をしてきている。

では今生きているがそこまで合理的でない選択をしているので子孫は残さず死に行く人は合理的ではないのかというとそうではない。そのような個体が生まれることすら、進化論的経済人の合理的選択の想定内である。

と、考えていくと、人はどうあがいても経済人(合理的な選択が出来るもの)であり、更に一般化して言ってしまえば全ての生物は経済人であると言える。

 

経済人は後悔しないというのはよく言う話ではあるが、誠に合理的な選択をする上では後悔とは必要不可欠なことである。考えなしに選択し、結果が喜ばしいものでなければ、次はその結果をもとに選択する。そちらの方が選択コストで言えば安上がりであるといえる。

 

単純に初等経済学ではモデルが単純であるために現実と動きが異なるだけで、それは経済学が無用の長物である証明にはならないし、

経済学の考える合理的選択と現実の人の選択が異なるからと言って現実の人は合理的ではないとするのも暴論であるといえる。

日吉杯に出す奴の初稿

変えないといけない所はあるけれどまずは晒すと決めてるからする

この中に、選挙に行ったことあるよ、という方はどのくらいいらっしゃいますでしょうか?

結構いますね。ここにいる人たちは問題解決を目指す人たちですから、選挙に行くのは当然かもしれません。
選挙というのは問題解決に至るための殆ど唯一にして最大の方法です。
私たちが投票する。政治家は当選するために私達の為に政策を実行する。
こうして問題は解決していく。
勿論他の方法もあります。
こうして演壇に立って話しをする、という方法でも問題解決に導ける。
でもここで目的としているのは、大体は投票行動を促して問題解決に導いているんです。
私の提案する政策に賛同するならば、その政策を掲げる候補者に投票してください、といっているんです。
だから、まともに機能している選挙制度なしに問題解決は出来ないんです。

だから皆さん選挙に行きましょう、といっても選挙に行かない人は中々行きませんよね。
ここにも選挙に行ったことがない人がいるみたいなので、選挙に行きたくなる小話をちょっと話しますね。
選挙に行くと2枚の紙を貰えます。ここに候補者の名前を書いて折り畳み投票箱に入れる訳ですが、実はこの紙、投票箱に入れた後自然に開くようになっています。集計するとき開く手間を省くためといわれています。投票箱に入れる前に折りたたんだ紙から手を放すと自然と開くのが見れるので是非投票しに行ってみてください。

といっても、選挙に行かない理由というのがその、折りたたんで投票しても元に戻ってしまうから、なんです。

どういうことか。

例えば、あなたは選挙に行って、候補者Aに投票しました。結果候補者Aは当選した。良かったですね。でももし選挙に行かなかったら?候補者Aは変わらず当選していたでしょう。候補者Bに投票していても結果は変わりません。
選挙に行っても、行かなかったときの状況となんら変わりません。変わるとしたら投票率が若干上がるぐらいでしょう。それでも当選につながらない少数派は無視されます。

主権全体の0.000001%しか持たない個人が与える影響というのは些細なもので、この現状は仕方ないと思われるかもしれません。実際そうでしょう。結局最終的には一つの方針を掲げるのです。
でもそう判断するのは私の政策を聞いてからでも遅くないでしょう。まずは聞いてください。

今回の目的は、この投票しても元に戻ってしまう現状を改善する方法を共有することです。

たった一つのアイディアです。国会議員の持ち票を弄ればいいんです。

国会をみれば、大人気な議員もドングリの背比べで辛うじて当選した議員でも等しく一票を与えられています。
これも一つの平等でしょうね。
しかし、国会議員間で平等である必要性はあるのでしょうか?
国民間で平等であることの方がよっぽど重要ではないでしょうか?
主義主張もなくなんとなくそこにいる議員より、国民の声を代弁できる議員の方が影響力がある、票を多く持っている。
そんな状況の方が好ましいと思いませんか?

私達は今”私たち”の代わりに議論してくれる人をみんなで選ぶ、という形をとっています。
でもそんな必要などないのです。
”私”の代わりに議論してくれる人を選ぶ、そんなことが出来れば選挙に行った甲斐があるでしょう。

そこで提案します。

国会議員の持ち票を1票から、選挙で投票された数に変える!

これだけです。
勿論これをそのまま導入すると問題が発生しますからその為の策を用意する必要はありますがね。

この政策を実行すると選挙の意味がガラッと変わります。
選挙は国会議員を選ぶものではなく、自分の代わりに政治をする人を選ぶ為の物、政治を委任する儀式に変わります。

この変化は選挙に行っても元に戻ってしまう現状を打破します。
ほっといても当選するような人を支持していた人もその人の力になれますし、
今まで落選していた人を支持していた人も0.000001%でも傷跡を残せる。
0が0.000001%になるだけですけど、この差は大きなものになると思っています。

ここからは細かい話をします

この政策をそのまま実行すると、問題が発生します。
どこで足を切るのかという問題です。
国会議員を選ぶ選挙ではなくなったと言いました。
持ち票の数を決める選挙だと。

では持ち票が1しかない議員がいたらどうでしょう。
そんな人まで議会に入っていては、収拾がつかなくなるでしょう。
どこかで線引きが必要です。
では、例えば持ち票が1000票以下の候補者は足切り、国会議員にはなれないとしたらどうでしょう。
1001票と1000票の差はたった1票であったにもかかわらず、1001票に広がってしまいました。他の場所ではそのような差がなかったにもかかわらず、です。
せっかくならば、線引きするにしてもそこの差を緩やかにしたい。

そこで1つの考え方を用意します。

議会にいるというのは、結構大きな影響力を持つのです。
実際に、この会場にいらっしゃる皆さんは、前にお座りの審査員とは異なり点数を付けることは出来ませんが、
場の空気に影響を与えることが出来ます。質疑してみたり、この大会では禁止されていますが野次を飛ばしてみたり。
そうでなくとも、ただ味方が沢山いるだけでも安心するものです。
議員になるということはそれだけで影響を与えるものです。それは投票して影響を与えるのと似ていますね。

ここで提案します。議員になるのに持ち票をいくらか支払うのです。

1000票以下の候補者は国会議員になれないようにしたい。その時は候補者は議員になるときに持ち票から1000票支払う。
するとどうでしょう。ただ足切をしたときは議員になれるかの瀬戸際では1001票の差があったのがたった1票の差になりました。
この問題は解決します

もう一つ問題ではないけれど、言及しなければならないことがあります。
国会議員の持ち票がそのまま支持者の数を表すようになれば、選挙区という概念は陳腐化する。

すなわち、全国区制にしても問題ない。
勿論全国区制は選挙活動に多大な金がかかってしまうという問題点はありますが、それは選挙活動に縛りを設けることで容易に解決しうる問題であります。

勿論有権者にとって全国全ての候補者の一覧を見せられても困る、という問題もありますが、今までやってきた通りにすればいいだけです。
大半は、どこの馬の骨かもわからない候補者がどこの党に属しているかで判断してきたのではないでしょうか。
ただ、初めて聞いたような名前の代わりに党首の名前を書いておけばいいだけです。党の名前を書いても良いでしょう。

以上、議員の持ち票数を投票された票数にするという大きな政策と議員になるために支払う票数の導入、全国区にするという二つの小さな政策を提案します。

ではこの政策によってどのような社会になるのか。
5点、変わるところがあります。
一つ目として、一票の格差はなくなります。
勿論全国区にすれば一票の格差というのはなくなってしまうのですが、仮に小選挙区を残したとしても国会において国民の一票は等しく一票として扱われます。
そこに地域差は全く生じなくなる。

二つ目として、死票がなくなります。
勿論、議員になれなかった候補者の分の死票は残ってしまいます。
しかし、注目してほしいのは当選確実になった人にさらに投票された分が死票ではなくなってるのです。
一票追加で投票すれば一票影響力を増していくのです。
これによって本当に投票したい人は別にいるけど無駄になるから微妙な人に投票しようとはならなくなるのです。

3つ目として、無駄な議員がいなくなります。
現在の制度だとただその地域の票を獲得するためだけに議員になっているという人がどうしても現れます。
それがこの制度ではいらなくなるのです。

4つ目は3つ目と関連しますが、与党の議員が必要最低限だけになれば少数派が座れる椅子に余裕が出来ます。
より多角的な議論が出来るようになるのです。

最後、5つ目は、国民の意識が変わります。
今までは党首のいう事を聴くだけの知らん人にしょうがなく投票した挙句、その結果は結局変わらない状況では興味が湧くはずもありません。
しかし、この制度の下では、自ら意思決定する人に直接投票出来、そして投票した影響が議決まで残るならば興味も持てましょう。
しかも、今、政治を見ようというとき、どうしても大局的な見方しかできず、個人個人を見ることは難しいでしょう。
ですが、この制度の下では、国民は投票した人一人だけを見ていればよいのです。
なんとなくふわっと見ていた議員をより鮮明に監視することが出来るようになるのです。

選挙というのは問題解決に欠かせません。
機能しなければおよそ殆どの政策が実行できません。
投票しても元に戻ってしまわぬような選挙制度を。

ご清聴ありがとうございました

 

 

 

日吉で出そうと思ってる選挙の弁論の要旨

現状

投票しても結果変わってないから徒労感

投票するつっても所属してる党ぐらいしかみるとこない

それにしても選べる候補者少なすぎる

あんま働いてなさそうな議員が目立ちすぎる

原因

議員1人1票なのが問題では

解決策

議員の持ち票を1票から投票された分だけにする

足切りは議員になる時に持ち票を一定票数支払うことで解決

なんか選挙区なくしても行けそうだからなくす

展望

徒労感が解消して行く気になれば投票率上昇(どうでもよい)

ひとりの候補者に委任する形だからそいつだけみとけばいいので議員を監視する機能が働きやすい

多数派の党の票持つ為だけにいる議員は削減出来る

多数派の党の議員が減ることで少数派の議員が議会に入れるようになりより意見を集めやすい

今まで切り捨てられていた少数派の存在を認識しやすくなる

フェアってなんだよ(哲学)

note.mu

 

これ。どう思う?

俺の立場では「市場価格は別にフェアな価格を示さない」なんだけど

 

【この枠の中の文章は、専門知識のない方は読まなくていいです】 

今回は”この枠の中”の話を主にします

 

フェアってなんでしょうね?

フェアとは - コトバンク

フェア(fair)

[名]フェアボール」の略。⇔ファウル
[形動]
 道義的に正しいさま。公明正大なさま。「フェアな精神」「フェアな価格設定」
 規則にかなったさま。またスポーツで、規定の場所の内にあるさま。「フェアな試合」「フェアフライ」

 

 だそうです。どうやらこの二つの意味を混同させているようですね。

フェア(規則にかなったさま)な市場価格(低賃金)で労働者を働かせて大儲けしてる経営者はフェア(道義的に正しいさま)じゃないのか?

ということでしょう。

 

ちょっとマルクスっぽい視点から考えてみましょう。

時給千円分の価値の労働しかしない労働者に、
経営者が時給千円しか払わないのは、当たり前だ。

会社がどんなに儲けていようと、
経営者に何十億円の年収があろうと、
そんなことは関係ない。

「時給千円分の価値の労働しかしない労働者」とは本当に時給千円分の労働しかしてないのでしょうか?

答えはNOです。もし仮に労働者がその給料分の労働しかしていなかったとしたらどうでしょうか?

何故会社が儲けているのでしょうか?

マルクス的な視点からみるとこれは疎外というのが起きているのだそうです。

1500円分の労働をしている労働者から500円ほどはねて1000円を渡す。500円から諸経費を引いて残りは利益になる。

別に会社や経営者が働かざる者とまでは言いませんのでこの疎外は当然と僕は思いますがね。

何が言いたいかというとこの前提として時給以上の価格を要求するのは労働者として不自然な行為ではないと思います。

労働者が千円分の価値の労働しかしないというのは経営者がそう思ってるというだけの問題なんですよね

 

誰でもできる仕事なんて、時給千円の値段しかつかなくて当然。 

 何故そうなるんでしょうか。

確かに供給者が増えれば、値段が下がるのは当然とは言えます。

ですがそれは需要者が少なければという但し書きがつくのです。

統計局ホームページ/労働力調査(基本集計) 平成30年(2018年)11月分結果

 年平均月次(季節調整値)2015年2016年2017年2018年8月9月10月11月完全失業率3.4%3.1%2.8%2.4%2.3%2.4%2.5%

最近の事件もありこういうところからデータを引っ張ってくるのは如何な物ではありますが、

失業率は低いとは言えません

f:id:Tempan:20190129124443p:plain

縦軸は価格、横軸は量を示しています。右下がりの線は需要、右上がりの線は供給をし示しています。

需要が少なければ、多くの労働者が望む価格より低い価格になります。

二本の線の交点より右側の供給の線の長さは「求める労働に対する価格より安いので、就職していない状態の労働者の数」を示しています。要は失業者の数を示すことになるかと思われますが、そこまで多くの失業者がいるというデータはありません。

非正規労働者を大量に使って利益を出して、株価を上げて、

という表現もあり、労働市場自体は大きいままであると考えられます。

 

でも、交点より右側の線が2.5%は少なすぎる。何故なのか。

ここで考えなければならないのは、「市場から退出する人」はどこ”へ”行ったのか?という問題です。

別の市場かもしれませんね。ではどの市場からも退出する人はどうなるんでしょう。

 

「死」です。

 

市場から退出するということは社会から退出することにほかなりません。自給自足する他ないでしょうが、人間はポリス的動物であるというぐらいで、実質的に不可能でしょう。住む場所や働く場所すら市場に取り込まれているのですから。

 

死にたくない者は死なない為に自分の労働に見合わない低価格で労働を提供せざるを得なくなる。

なんとか生活費を支払える程度の金が入る程度の価格でも我慢する。我慢しなければ死ぬからだ。

 

このように”合理的に”労働者が考えると先述した供給を示す線はがくっと下がる。

「自身の労働に見合う価格」ではなく「自身の生活費が支払える価格」へと。

そして自身の生活費が支払える価格すら受け取れない者は死ぬ。

1000円というのは労働の価値ではなく労働者の生活費だったのです。そりゃあ不満もたれますわな。

このように考えていくと、生活保護の意味が分かるかと思います。市場原理を適正に機能させるには社会福祉が不可欠だったという結論が導けるでしょう。

 

話を戻して進めましょう。

低賃金が嫌なら、努力して、経営者が高く買いたくなるような人材になればいいのである。

それが、市場原理主義者たちの考える、
「フェア(公正)な取引」というものだ。

もうお分かりですかね。努力して「労働の価値」が上がったのではなく、「それを維持する生活費」が上がったのです。ですから高度な技能職でもワープアというのがいるのです。

 

関係ないですけど、市場原理主義者ってなんでしょうね?まずどこで切るんでしょう

市場・原理主義みたいな感じがしますよね

 

ところが、人間の脳は、必ずしも「市場原理主義的なフェア」をフェアだと感じないということが、心理学の研究でわかっている。たとえば、大雪が降った翌朝、金物屋が雪かき用のシャベルの販売価格を大きく引き上げたとする。市場原理主義的には、これは全くフェア(公正)な取引である。需要が供給を大きく上回ったのだから、値段は上がって当然なのだ。

 これなんですけど、シャベルは使い捨てるものじゃないので安いときに買えやって思いますね。論点ズレちゃいますけど、突然の雨でコンビニで高値の傘を買うとき、その高値に不公正だって切れる前に用意してくれてありがとうじゃないんですかね?そういうところなんですよ。

 

実は、非正規労働者が問題だとされるのも、この「参照点」と「損失回避傾向」が原因の一つだ。

日本人の多くにとって、「正社員待遇」が参照点になっている。このため、「非正規社員は、不当に安い賃金しか支払われていない」と多くの人は、感じるのだ。

 もし仮に非正規労働者と正社員が同じ労働してたらきれるに決まってるんですよね。

市場原理を機能させるには「一物一価の法則」ってのを前提としていて、これは最近よく言う「同一労働同一賃金」と似た概念なんですが、もし同じ労働に異なる賃金が支払われていたらそれは自由市場ではないので、

市場原理的にはフェアであるってのは間違いである、と考えられます。

異なる労働ならそんなところ参照点にしてんなよって話ですよね。

 

それとはズレる話なんですが、仮に正社員と派遣社員が全く同じ労働をしているとしたら、同一賃金ではまずいところがあって、要は「リスク」に支払われるべき賃金ってのがあるんですよね。この場合派遣社員は正社員に対して「簡単に切られてしまう」というリスクを余計に背負っているのでその分高い賃金を要求できるのが筋であると思うんですよね。

 

っていうか、派遣社員って普段は必要ないけどたまに必要になる技能職のための制度だたんじゃないんですか?なんで同じ労働してるんですかね?

 

なんで引用元と違うのは「市場主義からも別にフェアには見えない」ってところですね。

そのあとの解決策についてはそんなに異論はないですね。

あえて言うとすれば、貧困層には手続きする余裕は残されていないので、ベーシックインカムみたいなほっといても貰える制度であればいいなと思ってます。

富裕税は大変そうですよね。

 

以上です