完成されたロジックとパトスが兼ね備えられた弁論、弁論大会でやる意味ある?

その原稿、増田にした方が良くない?

 

これは僕が任天堂うごメモはてなという流れでネット進出してきたせいではてなに寄った文化圏にいるからという理由もあるが、声の小さな少数派被害者の声は大概はてな匿名ダイアリーから聞こえる。

 

例えば、2016年新語・流行語にも選ばれた「保育園落ちた日本死ね」なんかもはてな匿名ダイアリー産である。

 

勿論ここに投稿される殆どは文学か文学もどきであって、弁論ではないから、投稿されたとして見過ごされることも多々あろうが、それでもトレンドに載るほどの言論がここから発生することは稀ではない。

 

もし、貴方が優れた分析と、情念溢れる文章を待ち合わせているならば、弁士から増田に転向してはいかがだろうか?

相続制度廃止論が以前実践されて失敗したらしい話。

相続制度廃止論が以前実践されて失敗したらしい。

具体的に2つ。

ポルポト政権下とルーマニア

両者とも知らなかった。相続制度を廃止した国家はないと思っていた。ので、調べてみた。

まず、ポルポト。それらしい記述は見当たらなかった。親を殺して貨幣制度を廃止したら当然相続はなされないとは思うが、教育機関を廃止した政権が、国営育児制度を実現させたかというとそう考えるのは難しい。

全政策を見たわけではないが、矛盾する政策が打たれている以上、この指摘はゴドウィンの法則だったと言えるだろう。

ゴドウィンの法則 - Wikipedia

ゴドウィンの法則とは、ヒトラーを持ち出して、ヒトラーがしたことなので悪とする詭弁法だ。

(これが正しい論とすれば、ヒトラーと同じ美大落ちをしたUDK姉貴は極悪人なので、住所特定などの嫌がらせを試みたホモの人は正義の執行者となってしまう。)

 

ルーマニア

これも見つからなかった。社会主義ルーマニアの後期というので、チャウシェスク政権下でのことだろうと思われるが、彼らのしたことは、出産の強要であって、親からの子の引き離しではない。確かに親の経済力以上の子を産んだ親は育児施設に捨てたことはあるが、これは本政策とは真逆の政策である。仮にこれを受けて本政策と同様のことをしたのならば、当然の尻拭いであり、これが失敗したとして本政策の脆弱性が証明された訳ではない。

というか、この政策は大分昔から知っていた。昔アンビリーバボーで10大悪女とかいう特集でチャウシェスク嫁が紹介されていた。

ずっとあれはどこで行われていたのだろうかと探していた。勿論本弁論で使うためでもある。

こいつの政策目的は以下である。「税収を増やすには人口を増やすのが手っ取り早い。女に強制すれば良い」

そうして一人当たり5人以上の出産をノルマとした。

これは、私が問題としていた、子供を産め、しかしその負担は負わない。税だけ払えという政治家の態度そのものである。

 

こんな政策と一緒だと思われたのは心外である。政策を理解させることは弁士の役目ではあると言っても、こんなことは言っていない。もし、こんな解釈をされてしまうのであれば、もう口頭での説得は意味をなさない。元より弁論は余り意味を持たないとは思うがこんな誤解をされるのは言語能力の限界により、知らない概念を認識できないといったことしか考えられないので説得行為が無理であるとしか言えないだろう。単語に反応するだけの哲学的ですらないただのゾンビに自分の歴史的教養のなさで論破されてしまったと一瞬でも思ってしまった自分が恥ずかしい。

福澤杯の反省

福澤杯日本語弁論大会に出た。久しぶりの湘南藤沢キャンパスだった。中学受験以来だった。ずっと湘南(s)藤沢(f)慶應(c)だと思っていた。慶應大学はcとkを混同しているのだと思っていた。キャンパスのcだった。

 

相続制度廃止論は、雄弁部に入るきっかけでもあった。勿論なくとも入ることにはなっていたろうが。相続制度廃止論は、高校一年生の政経の授業で、習った嫡出子非嫡出子違憲判決の話を聞いて閃いた物であった。

この弁論をどこかでやらねばと思っていた。時期尚早な気はしていたが、そもこの弁論は論破を期待している物だ。まあ良いだろう。

弁論とは相性の悪いテーマだ。論文にでもした方が良いだろう。だが、私は弁士だから弁論をするのだ。デカイ話の弁論をしろという要請もあった。そもそも、弁論大会以外の説得手段は既に試みている。大体、今話しているここは弁論大会会場ではない。

 

正直なところ、原稿は難航した。そもそも遅筆であり、先週はゼミ試だった。テーマがデカすぎてどこから論じていけば良いのかも分からないし、全部論じたところで理解が間に合うかも分からない。結果アジテーションに舵を切った。3日前のことであった。結果論理が希薄だと言われた。タンパク質生物に論理を語られても失笑してしまうのだが。

 

sfcの弁論大会ということで新しいことをして良いと言われたのでツイッター質疑をやった。slackでやっていたことを全員に強いた。運営として良かったかは知らない。質疑空間をデジタルにすることの有意義性はあったが、それがツイッターでやるべきかというとそうではなかったと思う。

質疑に当てはまらない物でも投稿出来てる環境や、沢山の質疑を回せることは良かったとは思う。

ただし、pcトラブルは痛手だった。言い訳にできたので良いけど。

 

恐らくだが、pcフリーズの原因は画面拡張によるグラボ大爆発だと思う。

 

勿論ツイッターの常時更新は重い。沢山新着ツイが来れば重くはなる。が、重くなるのはまず第一に回線であり、急にフリーズするほどかというとそうではないと思われる。

単純にノートpcで、手元の画面、演題を見せる画面、ツイッターを見せる画面と3つの画面を処理させればフリーズ必至でしかも復帰は絶望的である。

 

要請した私が指摘するべきだったと思う。家ではデュアルディスプレイは当たり前だったので油断していた。

 

リカバリーとして、ちゃんと質問を読み上げる奴をしなければならなかったのだが、見てる奴が殆どで質疑もめっちゃ来てたせいと中時間での遅れが大会運営への申し訳なさが先立ち急いでしまった。よくよく考えたら僕が急いでも30分は変わらないのだからゆっくり読めば良かったかもしれない。普通に読み上げたとしても、普通に質疑やるよりも質問ははけただろうに。

 

大会に来てない人のtlを荒らしてしまった話。

#福沢杯天野というハッシュタグで流させていたが、普通に表記ゆれ激しいので他の命名が良かったかもしれない(例えば演題で#相続制度廃止論 みたいに)。或いは@posとつけると良いらしいよといった話はしても良かったかもしれない。

特定のツイートにリプライさせる手法をとるのもあり得たろう。

 

ただし、tl荒らしになったことが、逆に大会の閉鎖性を軽減させたという評価も頂いている。個人的には昨年全日杯でやった見えない所の理念としては一切隠さないことを指向すべきとは思うが、荒らし扱いされて困るのは他ならぬ聴衆なので配慮すべきかもしれなかった。実際凍結された聴衆もいたらしい。恐らく会内でそのようなキャラという理由で通報されたのだろう。いじられキャラの通報はやめてください。

 

とりあえず明確な反省点は以上だと思う。他にも平等からの相続の話が飛躍していたといった指摘などはあったが、些細な話であるので割愛する

ようこそ、福沢杯からお越しになった方へ(書きかけ暫定投稿)

ようこそお越しになりました。態々URLを手打ちしていらっしゃったのでしょうか、ありがたいことです。さて、本弁論の具体的な話をする前にいくつかのリンクを紹介しておきます。

念のため注意書きを置いておきます

このブログは弁論界隈が読むことを前提としています。

そうでない人がご覧になっても理解できないおそれがある部分があることをご了承ください

リンク集

福沢杯を主催した団体のHP

辯論部 藤沢会

私が所属している団体のHP

明治大学雄辯部

質疑で用いたツイッターハッシュタグ(表記ゆれ回避済)

#福沢杯天野 OR #福澤杯天野 - Twitter Search

本弁論で用いた原稿です(このまま話した訳ではない)

とりあえずの原稿 - 321の日記

 

本題

本弁論では3つほどの主張が含まれていました

  1. 弁論大会を意義深くするためには議論を続けなければならない
  2. 平等のためには、相続制度を廃止せねばならない
  3. 相続制度廃止の穴を埋めるためには、私的扶養の廃止をせねばならない

1と2の間には本質的な乖離がありまして、本弁論が理解しづらい点なのかな、と思われます。

 ここにいらっしゃった方々には不要かもしれませんが、1について軽く説明しようかと思います

 

弁論に意味はあるのか

あります。しかし、現状の弁論大会における弁論は意味がないかもしれません。

何故今の弁論が意味がないといえるのか

よく言われる言説として、

「聴衆を説得してその行動を変えることを通じて世界を変えたいのであれば、より見てくれる人が多くなるであろうyoutubeにでも投稿すればいいのではないだろうか。」

といったものがあります。正しいと思います。声調を意識するよりも、カット編集や字幕を使ったほうがより説得力が生まれると思いますし、ひょっとしたら見てくれる人も多いかもしれないし、より拡散性が高いと言えます。

しかしながら、このような言説は、「説得活動には段階が存在している」ことを無視しています。その言説はまさにその言説は明らかであり、聞けばすぐにでも行動せんと思う程重大であり、かつ行動すれば解決するかもしれない問題のみであります。が、このような問題は大体解決します。先日高校生が大学試験に対する反対運動を行いましたが、彼に言われずとも全員が問題であると思っていました。中止がなされたのも、彼の行動よりかは文科相の発言によるものに見えました。いずれにせよこの段階の問題というのは、youtubeによる説得活動によって解決可能性はありますが、実はそこまで重大で解決できる問題であれば、すでに解決されるものなのです。

 

では、説得活動に足る問題はないのかというとそうではない。

我々が論ずるべきなのは大概、問題が認識されていない或いは、解決策が判っていない問題です。

前者の問題認識を呼びかける段階であれば、広報能力の高い弁論大会以外の手法をとることが勧められるかもしれません。しかし、後者については、解決策を考案することが求められていて、これに従事できるものが国民の大半を占めているわけではありません。前者の問題も大概解決策もわからない状態なので、結局広く伝えていくことは意味をなさないかもしれません。

この、解決策が判っていない状況を打破しようとする段階では、youtubeでは役に立ちません。何故ならyoutubeの客層は、その解決策を自ら生まんとするものよりも、何らかの権威に寄り添う傾向が強いからです(要出展)

 

弁論大会の意義は「聴衆が弁士ばかりだ」というところにある

聴衆が一般聴衆を代表しないことは、訓練には全くならないことや、偏りが激しすぎてその説得が伝播しないことが、そもそもの弁論大会の意義に疑いをもたれている要因であります。

しかし、私はここに意義があると思っている。そこにある聴衆がなんらかの問題意識を持ち、その解決策をひねりだそうとした経験がある人間ばかりということが、解決策を見つけ出そうとする営みを行うに当たっては、むしろ有益であるのです。

解決策を探る営みには対話が不可欠

従来の弁論大会の目的である、「聴衆を説得によって行動を変えること」は弁士が一方的に話すだけでも、達成し得ます。

が、解決策を導き出すことであれば、弁士同士が語り合う他はありません。

もちろん従来の大会でも野次や質疑時間、レセプションなどでの会話はありますが、現実社会に導入できるほどの政策は1日語っただけでは達成し得ないのです。

 

だから明日も繰り返し議論する必要がある。

そこでツイッター質疑空間の導入

ツイッター質疑空間には司会も時間制限もなく、延々と繰り返し続けることができる。勿論どちらかが嫌気がさすまでだが。

そして記録に残る。ひどい結果が導かれても、そのひどい結果とその過程が残り続ける(もちろんツイッター社が倒産しない限りだが)。後世の学者がみて同じ轍を踏まないようにできる。

野次に対して反応しても質疑に対して返答してもかき消されて聞こえないことはない。

 

だから、ツイッター質疑空間を導入する必要があったんですね。

1については説明できたかと思います。

 

 

何故相続制度は問題なのか?

そう考えた理由

これは5年前の秋のこと、高校で政治経済を学んでいたとき、嫡出子・非嫡出子違憲判決の話を学びました。

戸籍上の子と愛人との子で相続が2:1と決められていたという話でした。

そもそも俺の金の配分を法律が勝手に決められてるんじゃ不自由だなあと思うんですけどもね。それは措いておいて。

 

 

確かに生まれで配分が決定されているのは問題ではないか。となって、実際違憲判決が出て既にその条文は無いのですが、これは、嫡出子かどうかの問題に限らないのでは?と考えたのです。血の繋がっている私が受け取れて、繋がってない彼が受け取れない、この割合は1:0である、と。

勿論、その金銭を受け取れる妥当性がその人にあるならば、別ですよ?

例えば、天皇陛下であれば、その生まれた時点で皇族としての運命が決定づけられているから、宝具が相続されることは妥当である、とは考えられるんですよ。

しかし、受け取る人は特にそのような義務があるわけでもないわけです。

もし、大きな資産を受け取った人が、ノブレスオブリージュを果たす義務があるならば、その相続は妥当であると考えられます。

また、農家の息子が農民たることが義務付けられていれば、畑が相続されることも妥当であると考えられます。

しかしながら、そうはなっていない。国家間の税率に市場原理が用いられる、つまり大きな資産を持つ経営者は、その財力を以って私財を守る為に海外へ逃亡しようとする様を見れば、そのような貴族義務の感覚は持ち合わせていないエコノミック・アニマルであると言えます。

勿論権利に義務が必ず付与されるものでもないですが、今回の場合そのような普遍的に存在されるとする人間固有の権利といった物でも無いわけです。

妥当性もなく差別が為されている現状は問題であると考えられます。

 

続きは後で書きます

とりあえずの原稿

弁論大会で弁論する意味はあるのでしょうか。

本大会でも問われたこの問いに対して、私は一つの答えを持って、ここに臨んでいます。

それは、「弁士と弁士が出会うこと」、それが弁論大会で弁論をする意味であります。

従来弁論は、想定する聴衆を一般大衆、つまり国民或いは世界市民といったものを想定します。しかしながら、弁論大会に来る聴衆は想定される聴衆とはかけ離れています。国民には弁論経験者はこんなにはいません。

そこが、弁論大会の意味か疑われる点であり、意味のある点でもあります。

限られた、特殊な聴衆に訴えかけた所で、世界は一ミリも変わらないのです。しかし、考え方を変えれば世界を一ミリ変える弁論大会にすることができます。

ここにいる聴衆の多くは、弁士であったことがあるかこれから弁士になる人です。

弁士は、演壇に立って、独自の問題意識を抱えて、現状を分析し、解決策を捻り出す。

そういった経験があれば、人の弁論を聞けば思うことがあるでしょう。

その思うことを弁士にぶつけること、つまり対話が弁論大会における意義です。

対話によって不完全な論をより完全なものに、現実的なものに、実現できる物にしていく。

そういう営みによって我々は世界を一ミリ変えることができるのです。

 


しかし、この弁論大会における対話、というのは十分なものではない。

弁論大会にある対話は次の3つ

1.野次2.質疑3.レセプションなどでの会話

これらには3つの問題があります

1.記録には残らない

2.翌日以降続かない

3.あくまでも弁士と聴衆との対話を前提としていて、聴衆同士では対話がなされない

 


形に残らなければ、議論したことが無駄になってしまうかもしれない。

1日だけの議論では殆ど進まない。

聴衆同士もまた弁士同士の対話だ。

 


これらの問題点に対して一つの解決策を提示します。

続きはウェブで議論しよう。

 


パンフレットをご覧ください

ツイッターアカウントとブログURLが載っています

ブログには原稿を載せておきます

ブログはログイン不要でコメントできます。

 


また、本日は質疑応答に代えて、新しい試みとして、ツイッターで意見などを募集します。

ハッシュタグ)#福沢杯天野 と付けてツイートしてください

また、鍵垢だと見れないことがあるのでご了承ください

実況などにお使いください

弁論中に呟いて頂けると、直ぐに回答出来るので助かります

 


今のうちにツイッターの準備をお願いします

 


さて、本題に入る前に長々と申し上げた理由がございまして、本弁論の目的が、従来の物とは違うからです。

従来の弁論は、「このような問題があって、これをすれば解決できるからやりませんか」という政策の実現を説得することを目的としたものです。

しかし、本弁論の目的は、「

自由と平等を実現する為には、相続制度廃止は必要だ

しかし、十分ではない。その為にどのような世界にするのか対話を通じて導きませんか」

という対話ありきの弁論です。このような対話の場を設けることが必要だったのです

 

 

 

 

 

 

 


さて、本弁論に移ります

 


皆さん、「嫡出子・非嫡出子問題」ってご存知ですか?

分かりやすく言うと、戸籍上の子供と愛人との子供で相続される割合が2:1であるという決まりがあったという問題です。

既にこの条項は法の下の平等に反するということで、違憲判決が出て法改正されました。

確かに、親が婚姻関係にあるかないかで貰える額が二倍も違うなんておかしい。是正されるべきだ!

 


あれ?でもよく考えてみてください。

相続できる額が二倍どころじゃなく違うこともありますよね?

貴方の親父さんが孫正義だったらどうですか?純資産2兆6000憶円だったらどうですか?相続税引いても1兆円来ますよね?

えっ、一兆円!?

その人から産まれただけで一兆円??

皆さんいくらぐらい相続します?

1億もないですよね。

2倍どころじゃないですよね?

流石に不平等ですよね!!!

 


是正されるべきじゃないですか?

平等である為になんらかの政策をうつべきではないですか?

平等、産まれた境遇によってスタートラインが変わらない状態にしなければなりません。

天は人の上に人を作らず、先生もこう言っています。

 


この平等を、相続制度は妨げているのです。相続制度は親の仇であります。相続制度は廃止せねばなりません

 


今は平等ではない。→親がいくら稼いだのかがそのまま子に受け継がれてしまうからだ→これは不当である→廃止すべきだ。

 


そういう訳で、私は相続制度そのものの廃止を訴えます。

 


とはいえ、平等を実現する方法というのは、勿論相続制度廃止、簡単に言えば相続税100%化以外にも方法はあります。

例えば、私有財産を認めなければ、平等は実現されます。

しかしながらこの制度、働くインセンティブがなくて実現は困難なんですよね。

 


第一、働いても働いても何も褒美をくれないのは、これもおかしい。

よく働いた人とよく働かなかった人が同じ扱いなのは寧ろ平等ではない。

 


真の平等というのは、産まれたときのスタートラインは皆同じだけど、努力した分だけ報われる状態だ

先生も『学問のススメ』で似たようなことが書かれてある。

 


そこで私が提案する妥協点が、生きている間は私有財産を認めて、死んだら没収する。

死んだ後も金を持っていたってあの世には持っていけませんからね。

 


マルクスは平等な社会にするには、革命を繰り返す他ないと言ったらしいが、そんな余裕も気力もないし、効率的ではない。

それでも私財の蓄積が認められる以上、定期的なリセットはされる必要がある。なれば、制度に組み込む他はない。

どこでリセットしたらいいか。死ぬときじゃないですか?

 

 

 

親が何者かに拘らず我々は何の不自由なく過ごせなければならないのです。

 

 

 

しかし、勿論、相続制度を廃止さえすれば、平等を実現出来るかというとそうではありません。

相続制度廃止は必要条件であって、十分条件ではないので、ここに手を加えていく必要があります。

 


ではどんな手を加えるのか

 


ここで、私が提案する補正案は、私的扶養の廃止、分かりやすくいうと、両親が実の子を育てるといった義務をなくして、国が一括して子供を育てようという提案です。

 


相続制度の廃止は、親が亡くなった後、残った財産を分配する段階においては、平等にすることはできますが、生きている間については平等にすることは出来ません。

親は生きている間も当然子に色々な物を与えます

飯を食わせ、服を着せ、幼稚園や保育園に通わす。

幼児教育に手を出し、習い事をさせる。

学校の他に塾に通わすかもしれない。

 


或いは何もしないかもしれない

 


今回の相続制度廃止の理念、親が何をしたかに拘らず、スタートラインを一致させること、を考えればこの私的扶養義務をなくして公的扶養、つまり政府による育児制度の確立をするべきであります。

 


とはいえ、この親から子を引き離すような政策、無謀にも聞こえます。

では、私的扶養をなくすことはどのくらい妥当なのかについて、説明します

そもそも、実の親が育てなさい、経済的負担も肉体的負担も貴方が負担しなさい。という在り方に問題があります。

 


例えば子育てに求められる四つの要素が全て揃っているというのはまずあり得ません。

出産能力があり、子育てをする時間、金銭、そして知識を兼ね備えていることはないのです。

 


出産能力を考慮して二十代の夫婦を想定しますと、働き盛りですね。最近は働き方改革で女性も働いていて、共働きだったりします。子育てをする時間的余裕はない。しかも、年功序列であったりして収入は十分ではなかったりする。

その上、彼らは育児経験もなければ学校で勉強している訳でもない。

時間も金もない若い育児素人に育児を任せることが、上手く行くはずもなく、現在少子化が進んでいます。

 


しかも、そもそも、育児には向き不向きがあります。

例えば児童虐待なんかありますが、子供を設ける時点で、「よし我が子をボコボコにするぞ☆」と意気込む人は稀で、どうしようもない理由で虐待に及んでしまった、ということが大半です。

虐待しないようにね、なんて言われても土台無理なわけです。育児自体が向いてないので。

でも、育児は無理!だなんて言えないんですよね。世間体が怖すぎて。自分では分かってても、児童相談所なんかに逃げ込めないんですよ。親なら皆やっている、育児が出来ない自分など、人間失格の烙印を押される。それで困るのは他ならぬ子供です。育児が向いてない人が、親から降りれるようにしてやる為にも、スタンダードを「育児を皆やる」、から「育児は専門家がやる」に変えないと行けないんです。

特定の個人に義務付けられてるのは、非常にまずい。

両親の仲がずっといい保証はない。

喧嘩やDVの絶えないこともある。

離婚に至ってしまうこともある

 


子育てが終わってもこの呪縛は終わらない。親が介護が必要になったらどうするのか。子供が介護をしてたら彼等の人生は大変なことになる。誰かに頼むとなっても金がない。これも国が担うべきだ。

家族という小さな単位で完結させようとすることは非常にリスキーだ。

そういうことを考えても私的扶養の廃止は妥当だと思う。

 


だから今日主張する政策はこの2点

一つ目、平等の実現には相続制度廃止は必要だ

二つ目、相続制度廃止に伴って私的扶養も廃止すべきだ

以上

 


さて、一通り私の主張はしました。

しかし、私が一方的に話したところで皆さんの理解が完全になることはありません。

皆さんの理解は、対話なくして完成することはありません。

 


今回、対話を実現する為に、質疑を工夫します。

本弁論では質疑に代わり、ツイッターハッシュタグを用います。

 


この形式には、4つほどメリットがありまして

1記録に残ります

2聴衆間でリプライが送れます。

3ここハッシュタグなツイートした人同士でフォローしあえばこの先も議論を続けることが出来ます

4多くの観点を、より短時間で共有することができます。

 

 

 

30分になるまでは採点の対象ではありますが、これから先もずっと、求められれば対話に応じていくつもりです。

今聞きたいこと、今いる聴衆にも示しておきたいことなどあれば、ぜひ今質問していただければ幸いです。聞こえぬ野次、明日には忘れる長質疑、貴方の思いを140字に込めて欲しい。その思いが未来の礎になることを祈って。

弁論は以上です。では、質疑に移りましょう。

 

 

 

質疑が終わるタイミング

 


そろそろ30分が経ちそうです。

今回の目的は、「相続制度廃止」という不完全な提案に結論を出す為に、弁士同士の対話をすること、それが本弁論の意義でありました

勿論、対話は30分で終わる程簡単な問題はありません。

本弁論に限らず議論が続いていくことを願い、弁論を締めさせていただきます、ありがとうございました

相続制度廃止論に対する想定される質疑

11/15現在

Q:育児者不足により、愛情の不足、健康上の問題が発生するのでは?

A:両親による育児であれば、分業がなされないワンオペとなり、効率が非常に悪いのは明らか。従事者が同数であれば高い練度を維持し、分業制をとる本制度の方が愛情をかけやすくなる。

 


Q:これはあなたの実験が目的ですか?

A:初の試みが実験の延長線上なのは当然

 


Q:金持ちで免許持ちの親を持つ子と、貧乏免許無しの親で施設に入れる子が発生するのでは?

A:十分にあり得る。しかし、現状と比較して、大きく不利になる子は限りなく減るだろう

 


Q:子供のために財産を残そうとする動機が損なわれ、発展が鈍化するのでは?

A:育児の為に使用される分は税として納められる。その為、自己の効用の最大化を達成する過程で十分生産はなされる。また、子孫への蓄えは、際限がないので、過剰な労働を誘発してしまう。

 

Q:育児公務員が不足するのでは

A:現在育児労働者が少ないのは、

1,急激な外部化が進んでいて対応しきれていない

2,依頼者が若く、余裕が無いなどの理由で支払い能力が低い為、賃金水準が低い

ことが原因として挙げられる。特に2については国費で支払われる為比較的上昇しやすいと思われる(勿論現政権をみると、適切な支払いが行われるかは疑問が残る)

相続制度廃止論をやろうとした抑の動機の話

最初から説得が目的ではなかった

あらゆる弁士は大概、自分の論は絶対であるという前提で挑む筈であり、その絶対的な論を無知蒙昧な聴衆に授けんとする。

誰が論破されることを前提に演壇に立つだろうか?

私だ。私は相続制度は廃止出来ないことを自らが論破されることで示そうとしていたのだ。(結果は論が伝わらずに終了した)

論破されることで逆説的に示したかった理念

相続制度廃止論は、自由平等(特に平等)の達成という理念の下、主張される論だが、当弁士はこの自由平等という題目を懐疑的に見ている。我々には高過ぎる買い物ではないか、と。

弁士は自由平等の達成に不可欠な相続制度廃止論が却下されることにより、結果的に自由平等を手放してより効率的な社会を目指させようとしていたのだ。

自業自得と宣う民衆

自己責任論が流行している。自己責任論は、自由平等が達成されている状況でなければ通用しない。

自己責任論を好んで使う者は、自らの選択が外部から(比較的)独立していて、その選択肢によってのみその処遇が決定されること(自由平等)を前提としている。

しかし、現状はそうではない。彼等強者は、どうしようもなくそうあらざるを得なかった弱者に対して負担を強いているのだ。

 

別に弁士は正義心にかられ、それを正さんとしたい訳ではない。ただ、愚かにもその恵まれた状況に気付かず、世界を自由平等と勘違いする者が気に食わない、ただそれだけのことである。

 

自由平等は何者かに与えられた物ではなく、生まれながらに存在するものである。日本憲法にもそのようなことが書かれている。

しかしながら、存在するものを実現させる為には、制度的な何かが必要であり、それは決して無料なものではない。

高過ぎるからといって手放すのも手である。しかしながらそれであっても、この世界は自由平等ではないことを前提として、運営していかねばならないだろう。それを民衆が認められるかは疑問である