手の内を晒していくスタイル

大会は既に水面下で始まっている・・・

アダルトビデオってみたことあるか?モザイクがついてたりするよなァ?あれ無くてよくないか?廃止すべきである!

(何らかの野次)

野次どうもありがとう。今回はモザイクの是非を論じたい訳じゃない。この意味のないものが成立してしまっている理由、我々の心、が生み出している問題について話そうと思う。

 

今回の主題ではないけど、アダルトビデオにモザイクを付けなければならない直接の理由は、刑法175条猥褻物頒布等の罪があるから、175条を理由に警察が摘発しにくるからとお考えでしょう。

確かにその通りです。では何故この刑法175条って存在してるんでしょう。何を保護してるんですかね?

 

表現からの自由を挙げる人もいるでしょう。確かに私も小学生の時、初めて買ってもらった携帯から見たウェブサイトにボーイズラブのマンガの広告を見たときはなんだかなあと思った覚えがあるんで、見たくない人が見ないでいられる状態が望ましいなと思います。がしかし、それとこの法律はあまり関係がない。見たくない人が見ないでいられる状態ってのはどういう状態でしょうか。仕切られた部屋の中で暖簾の向こう側で売り買いされていれば、いいんじゃないでしょうか。実際そうなってますよね。しかし175条的にはあの仕切りは意味がない。仕切りの中の物も猥褻物ではない。だからモザイクを掛けなければならない。そう考えるとモザイクって何の意味があるんでしょう?

 

いくつか仮説を考察してみると浮き上がる理由。それこそが私の論じたい話なのです。

不快に感じているものを不快だからといって誰からも見えない所へ押し込もうとする、その姿勢が問題なのです

では、どうあるべきなのか。

 

不快に感じることや、不快であると表明することは問題ではなくむしろやるべきなんだ。でも、自らが不快に感じたものイコール悪であり断罪するべきだといって実力行使に及ぶのはまずいのではないでしょうか。暴力による解決は楽でしょうが、それは真の解決にはなりえません。真の解決は言葉によって説得して、皆の同意が得られて初めて問題は解決していくのです。私たちは、存在する問題をまずは議論に上げ、問題が存在するのだと認識するところから始めなければなりません。

 

ちょっとモザイクの話に戻りましょう。AVのモザイク、エロ漫画の黒塗りなんかは検閲の形をとっているのです。処理が妥当かどうか判断して、出版させるかどうか決める組織を通さないと販売できない。これは検閲じゃないです?。検閲は表現の自由を侵害しています。勿論、憲法で禁止されている検閲とは異なります。政府が主導している訳ではないからです。法律に基づいているとはいえ、民間組織がやっています。

このような検閲の在り方を自己検閲と呼びますが、自己検閲はむしろ政府による検閲より危険なのです。何故か。政府の検閲は治安の維持だけの為にやっています。勿論それでも十分暴走しうるのですがね。対して自己検閲は批判にさらされないようにするために行っています。規制する基準は文句をつける人のお気持ちに左右されますし、未然に防ごうとすればより厳しい規制になってしまいます。規制が激しくなって、表現がマイルドになれば、多少過激な表現が目立ち、批判されていきます。際限なく表現の自由が奪われていく。自己検閲は激しくなりやすいだけじゃない。検閲そのものが見えない所に行ってしまう。業界内部で処理してしまうので、何が規制されてしまったのかさえ見えなくなってしまっている。どこまで規制が進んでしまったのか、まったく分からないままでは気付けば手遅れになってしまう。

 

だから、出版社は自己検閲してはいけない。出版社は外からの圧力に負けて表現をしないという選択肢をとってはいけないんです。でも出版社も利益団体です。顧客かもしれない人々の意見を無下にすることはできない。だから、我々は出版社に、表現が不快であるからといってとりさげさせるような圧力をかけてはいけないんです。

 

文句はどんどんひどくなる。

実際文句つける人はモザイクがどうこうという成人向けの領域をとっくにこえています。

 

例えば、キズナアイって知ってますか?世界的に人気なバーチャルユーチューバーです。先日NHKノーベル賞解説企画にて出演したところ、それに対していちゃもんをつけた人が現れ、炎上していました。彼女曰く「キズナアイは性的に強調されている。NHKにそぐわない。やめろ」

でも、そんなに性的ですかね?あのぐらいの服装なら自分のためのファッションとしてやる人も多いんじゃないですかね?

とはいえ、いくらその主張が正しくないとしても、ただいちゃもんを付けるだけならなんら問題がない。でもその主張に

 

あほらしい主張だなとお思いでしょう。こんな主張だれが飲むのかと。でもありうるのです。碧志摩メグというキャラクターは、その服装が性的に強調されているという理由で、公認を取り消され、地方活性化計画は失敗に終わりました。十分主張が通るのはあり得ます。今、大多数がトンデモだと思って取り合わないような主張でも本気でそう思ってる人が少なからずいるのです。一定数そういった考えの人が集まれば圧力をかけて謝罪させたり自主規制させるすることはたやすい。このような人が権力ある規制する立場になることも十分に考えられる。

 

別に性的なものだけじゃない。様々なものに自分勝手な正義感を振り回しているのです。

 

例えば新潮45。それ自体LGBTへの不快感を示すものでありますが、LGBTに対して、不快感を示すことが許せないという方がその正義感に基づいて非難して、出版社に雑誌回収させるまでに至りました。しかし、不快感を示すことは許されるべきです。不快感を示す人間の口をふさいだところで彼らの理解は得られません。

 

例えばシーシェパード。勿論、あんなもん食ってるとかどうかしてんなと思うのは自然だと思います。でも漁船に体当たりするのは違いませんか?もろ犯罪じゃないですか。他人のしてることを否定するならば、具体的に論理的な説明をするのが筋というもので殴りかかるのはいかがなものでしょうか。

 

ポリティカルコレクトネスによる言葉狩りもありました。障碍者を表す表現や男女を区別するような表現は排除されていきました。しかし、表現を排除して果たして障碍者差別や男女差別はなくなったのでしょうか。

 

あなたが不快になったからといってその表現を排除して表現を見えないところに追いやったとしても、その不快になった原因である本当の問題は依然存在したままなのです。

では、私たちがすべきことは何か。あなたの正義感があなたの不快感に基づいてるんじゃないか、考えてみてください。その不快感に基づいて誰かに圧力をかけていませんか?圧力をかけてもいいのか今一度考えてほしいのです。

 

私たちは自由に表現ができるような社会を求めています。しかしあらゆる表現が容認される社会というのは不快な表現があふれるでしょう。表現というのは存在する以上誰かを不快にしてしまうからです。あなたの表現も、あなたが誰かの表現を見て不快に思ったように、誰かを不快にさせてしまうのです。しかし、不快な表現は守らねばならないのです。何故なら、不快に感じる原因である、解決すべき問題が背後にあるからで、不快な表現を規制して見えなくしてしまうことは、その問題を見えなくしてしまうことに繋がってしまう。私たちは社会にあふれる問題を解決する為に、認識する為に、問題にモザイクを掛けて見えなくしてはいけないのです。

 

私たちは表面の表現だけをみて不快になる前にやることがあるはずです。実際問題を解決していかねばならないんです。表現に圧力を掛けていく暇なんてないんじゃないですか?私たちは問題を解決する為に認識する為に、我々が何か批判するときは、それ自体が暴力になっていないか気を付けなければなりません。私の、そして皆さまの表現が要らぬ強制力を持ってしまうことを願いながら、本弁論を締めさせていただきます。ご清聴ありがとうございました。