いつだって起きれるからこそ寝転がる

先日祖父の葬式を終えました。晩年は非常に辛そうなものでした。楽にしてやれたらいいものを。そう考えていました。とはいえ、死は救済であるなんて思想実際に身内の遺体を見れば吹き飛ぶのではないか。そうも思っていました。

が、そうはならなかった。綺麗に繕われた身体からは黄泉の気配はなく、随分と重荷から解放された穏やかな表情に見えた。勿論我々生者に死の苦しみも死者の感情も分かる訳はないのですが。

寧ろ、死は救済である、といった思想は強まるばかりでした。ある時、祖父が娘、私の母、に向けてこう言ったのを覚えています。「お前の為に頑張っているんだぞ」

確かに彼は頑張って生きていたのでしょう。実際病態は何度も好転していました。私は頑張って生きてきた経験はありませんが、ただ生きて事態が好転するというのはありませんでしょうからその頑張り具合というのは察せられましょう。しかしながら、その頑張りは自分の為ではなかった。残されるものの為に頑張っていた。その頑張りから死によって遂に解放された。これは何も頑張りが実らなかったことを意味しない。逆説的ではあるが、頑張りが実ったからこそ死んだのだ。

誰かの為に頑張るというのは、病床の上でする事だけではない。利他的行動は様々な行為に見られる。しかしながら、病床の上以外での行動は、明らかに社会全体の幸福を向上させるものであると思われる。病床の上での頑張り、それも元の生産的(この表現は問題があるが)な生活に戻れるのは絶望的な状態での頑張りは果たして社会全体の幸福を向上させているか。効用について考える。残されたものが、その生きている間会いに行けることが唯一にして最大の効用であろう。コストについて考える。まず、患者本人は苦痛の連続である。病床は娯楽が皆無に等しい。その上で病気による苦痛が責める。残されたものに対してもコストはかかる。お見舞いの時間的精神的コスト。また入院費もバカにならないだろう。

それでも我々は能動的に死を選ぶことが出来ない。殺人であったり、自殺幇助になったりするからだ。

生かさなければならない。死ぬまでは。それが何を産むわけでないとしても。