「受けた人が○○だとおもったらそれは○○なんだよ」
これ、合理的な定義だと思うか?違うよな?
受けた人がどう思ってるかなんて分からないし、その人が過敏なだけかもしれない。定義が面倒だからってこんな定義付けしていい訳ないよね?
でも、こういう定義を採用しているものが、僕が知ってるだけでも二つある。「いじめ」と「セクハラ」である。
僕が小学生だった頃、あるクラスメイトがいじめを告発した。
それは休み時間の話だった。僕たちはクラスメイトでドッヂボールをしていた。そのクラスメイトも参加していた。ドッヂボールというのは、ボールを投げあって相手の頭以外のどこかに当てて退場させ、最終的に場内に多く残ってた方が勝ちといったゲームである。僕らはそういうルールを合意して遊んでいた。そのつもりだった。
投げられたボールが誰かに当たる。それはそのクラスメイトも例外ではない。例のごとくそのクラスメイトは当てられた。普通の光景だと思っていた。しかしそのクラスメイトは泣き出した。泣きながら校舎へ戻っていった。
彼女はそれを「いじめ」だと主張した。確かに、定義上はそうである。我々の中で合意が取れていると思っていても、彼女はそうではなかった。受けた人がいじめだとおもったらそれはいじめなんだ。だが、そのように主張された教師も困惑しただろう。ドッヂボールでボールが当たったからいじめだという。それは経験のないことではなかろうか。
この定義には欠陥がある。
勿論いじめについて、全ての問題を解決できるかというとそうではないだろう。いじめという言葉に包まれた犯罪行為は法律で処罰しうるならばそれに基づいて学級裁判でもすればよい。が、例えば無視といったものについては法律で処罰されようがないし、定義付けも本人の不快感以外に私もアイデアはない。
だが、「セクハラ」は解決しうるだろう。
解決策を探るため「セクハラ」と近い位置にある「パワハラ」について考えてみたい。
パワハラとは「置かれている権力構造を利用して、なんらかの行為(受動的行為含む)を強制すること」と置くことができる。
パワハラはセクハラと同様に法的な意味合いというのは無い。が、その語の存在理由として、他の法的な制度ではどうしても漏らしてしまう非倫理的行為を罰したい為に作られたという側面がある。ここでは「権力によって自発的に行なっているかのように見せかけられた強制された行為」を問題視しているのだろうと考えることができる。
昇格の取り消しや降格ないしはクビといった権力的暴力をチラつかせることで契約外の行為でも強制することが出来てしまうことについて、パワハラは問題視している。
セクハラは大きく分けて二類形あるらしい。「対価型」と「環境型」と分けられる(出典Wikipedia)。前者はパワハラに通じている。権力的暴力によって行為を強制している。Wikipediaには性的なネタへの強制参加は環境型に位置付けられているが、これも対価型として良いだろう。やらなければ人事的に不利になってしまう可能性がある。
私や世間が問題視しているのは後者である。これは本当にセクハラたり得るのかと。前者は物的不利益が想定されるのに対し、後者は心的不利益を想定している。
性的な言動により環境を悪化させるというが、基準が不明である。
権力的圧力がないならばそれは地雷だからやめてくれと言えば良いだろう。「何もないのにセクハラだといって世間的圧力を加えてやめさせることこそセクハラだ」となってしまい不毛な争いになるのを食い止める為にもう少し基準を明確にすることによって、議論を建設的にして、解決可能性を高めることこそ、被害者のためになるのではないでしょうか。