拓総第二弁士をきいてて考えたこと

お疲れさまです。明大雄弁の321が勝手ながら自大弁士について思うところがあるので述べようと思います。演練や本人その他部員と話したことも考慮に入れているので弁論そのものとズレることがあります。

 

テーマは「英語帝国主義に於ける、英語ネイティブと非ネイティブの言語習得コストの不平等の是正」でした。

 

非ネイティブはネイティブと比べて英語習得コストが余計にかかってしまいます。この分だけ、非ネイティブはネイティブより可処分所得が少ないと言えます。同時に、ネイティブはこの多めに残った可処分所得を他の部門に回すことが出来ます。この差は小さいように見えるかもしれませんが、指数関数的に広がってしまうのです。

 

これは個人の問題ではありません。国家間の問題なのです。

従って社会福祉といった方法で解決することは出来ません。無論国際連合がやるというなら別ですが。

 

現状英語とその話者が言語戦争とも呼べる争いに勝利し、英語が半ば世界公用語となっているのは事実でございます。(勿論、その他西洋言語や中国語もそれなりの地位にあるのはその通りですが、それでも英語にはやはり及ばないのではと感じます。海外と話をしようと思ったならばまずは英語を、となるのではないでしょうか。)

 

英語がここまで成長した理由として、アメリカが世界大戦に勝利し、経済的にも優位に立ったから、というのもあるでしょうが、やはり英語の成り立ちからして他言語のいいとこ取りをしたために、西洋言語の中庸的立場でかつ不要な文法が捨て去られたために習得が容易であるからというのが大きいのではないでしょうか。

 

となると、他の国が戦争に勝って他の言語が国際語的立場にたっても良かったのかというとそうではないことが分かります。例えば日本が勝って日本語が国際語になりえたかというとそうではないでしょう。文法が激しすぎて完全に習得出来ている人は日本人でも少ないように感じられます。

 

となると国際語を英語以外の言語にすることで不平等を是正しようとするのは、不可能であろうと言えます。

たしかに、誰も母語としない言語を国際語とすることで、習得コストに於ける不平等は是正されます。が、これは社会全体の習得コストが大きくなっているだけであります。非ネイティブは新たな言語を習得する点ではコストは変わらず、ネイティブは新たに言語を習得するのでコストがかかるだけであります。皆貧乏になって平等を実現するのは社会主義の悪いところでありましょう。

 

勿論、母語話者の居ない言語を公用語にするのは大きな利点があります。第一に母語話者にお伺いをたてる必要がない。第二に文法が変化しない。第三に歴史的制約を持たないので合理的な言語体系を組むことができる。

ひとつ、英語教育では「ネイティブが使ってるから良い/悪い」という文言が多く使われました。「確かに文法的には正しいがネイティブはそんな使い方はしない。確かに文法的には間違っているがネイティブはそう表現する。」

My name isとI’m 問題などそうでしょう。世界言語ならば文法第一にすべきなのです。

ふたつ、これは上のネイティブ第一主義を取らないというのと大きく関わっています。母語であれば、伝わるから省略する、だとかここを強調したいから語順を変えるといったことがよく起こります。そのような不規則表現をさせなければ文法はそう変化しません。

みっつ、これも上と被るのですが、歴史的背景は例外を大きく発生させます。不規則変化動詞であったり、読まない文字であったりはこれらの歴史的背景による例外てあると言えましょう。歴史的背景を持たなければ例外のない簡潔な文法を持つことができる。

 

これらのメリットを持つ言語を実現せんとして作られたのは、かの有名なエスペラントであります。言語としては平易であり、英語より国際語然としてるので推しても良いでしょう。

 

しかしながら、流行っていない。日本が学んだところで他国に学ばせなければ国際語たり得ない。全体としてのコストが下がり、英語母語者に学ばせるコストを考えても問題ないとしても、彼らは新たな言語を学ぶのを選択しないでしょう。

 

日本が、他国の教育制度に干渉し、習得言語を変えさせることなく、不平等を解消する方法は何か。

 

それこそがジャングリッシュであります。

我々は発音を習得しない。何種類もあるアという発音の違いを学ばない。英単語はカナカナで表せるレベルまでしか学ばない。

そして、ネイティブにそのカタカナ発音を理解させる。理解するコストを強制的に支払わせることで不平等を解消していく。

 

しかし、これだけでは結局英語を学ぶのだから不平等は完全に解消してないではないか。という反論があろう(実際あった)。だから理論武装した。

 

英語その他非母語を学ぶことは、その言語を使う実用的価値以外にも価値がある。非母語の文法を学ぶことで母語の文法をより客観的に見直すことができ、深い理解ができる。非母語の単語を学ぶことで、ソシュールの言う所の分節について認識を深めることが出来る。ただ「あし」と見ていたものを「leg」と「foot」と分けて理解することができるように。

 

このように考えれば、英語習得コストのいくらかは母語の理解を深めるというリターンが返っているからコストとして見なくても良いと言える。

 

しかしながら発音は別である。ネイティブの発音を覚えたところで、日本語の発音理解は深まらない。アクセント辞典でも読んだ方が合理的である。そもそも口の構造上の問題があり習得不可能な場合がある。発音習得コストはなんら副次的利益のない純粋なコストである。

これをとりはらおうと言っているのだ。

発音習得コストが浮いた分他の学習に費やすことが出来る。

 

まとめ

 

非ネイティブとネイティブの間には英語習得コストに於いて不平等がある。

 

この不平等は国を跨っている。

 

日本の出来る政策の限界や、功利主義的な視点から、国際語を非英語にすることは難しい。

 

英語習得には発音教育とそれ以外と分けられる。前者は副次的利益はなく、後者はある。

 

発音教育をやめ、カタカナ英語を理解させることでネイティブに支払わせることで不平等を解決することが出来る。

 

以上であります。