選ばれた者にしか弁論が出来ない理由

弁論とは、何か解決されない社会問題に対して、演説を行うことで解決に導こうとする行為のことである。

社会問題とは、ある集団にとって改善されねばならない事柄のことである。

 

社会問題は2つに大別できる。「どうでもいい(とされる)事」と「どうにもならない(とされる)事」である。

 

特に今回の主張では排反である事は示さなくても良いが、排反であるという事は出来る。どうでもいい且つどうにもならなき事は深刻性も実現性も乏しく抑も問題として認識され得ないからだ。(勿論認識されないだけで問題として存在はする。日吉杯ではこの手の弁論をしている。)

 

どうでもは良くない且つどうにかなる問題は存在しない。そのような問題が有れば積極的に解決され、既にこの世に存在しない問題だからだ。従って一瞬そのような問題は存在しうるが、時が解決するので我々は何も出来ない。

 

どうでもいい事は先のどうでもは良くない事より後回しになるので問題は依然残ってしまう

どうにもならない事は当然問題として残る。

 

従って「どうでもいい事」か「どうにもならない事」がある。

本当にどうでもいいかどうにもならない場合は我々は何もする事は出来ない。何を主張しようとも空振りに終わる。

 

従って社会的にどうでも良いかどうにもならないと思われていた事が、実はどうでも良くなくどうにかなる時にのみ、我々は弁論をする事が出来る。

 

つまり、ある問題について社会が認識していなかった深刻性か実現性の高い解決策を見つけて示さねばならない。

 

然し乍ら凡人は社会と同じ見方をしている。

従って弁論は選ばれた者にしか出来ないのだ。

 

とはいえ、凡人にも実のところ弁論は出来る。というのも、社会の構成者は同じ視点を持っている訳ではなく、差異が存在しているからだ。

凡人は知られていない超人の言説をどうにかして見つけ出しそれを広めることは辛うじて出来る。

 

弁論は一部にのみ知られていた事を広める行為にしか過ぎない。その一部が弁士であった必要性はない。

 

どちらにせよ難しいことには変わらないのだが。