桜門杯の某弁論に思うこと

先日、10/5に日本大学法秋雄弁会主催の弁論大会が行われました。

9弁士というそこそこ多い弁士の中でもかなり異彩を放つ弁士がいて、それは、第8弁士慶應大学井出弁士でして。(彼はどんな大会でも異彩放ちがち)

 

簡単に彼の弁論の内容を説明しますと。

どの弁論も自己紹介をせず、急に問題を提起しがち。

知り合いの多い弁論界隈なら通用するかも知れんが外に出たら通用せんぞ!

社会で通用したいなら自己開示しよう!

 

って感じ。この弁論の主張自体が矛盾を抱えてしまっているのは本題ではなくて、本題はこの弁論に対する審査員の感想。

 

弁士は聴衆を舐めてる。聴衆は弁士に対して怒りを覚えている。そのように感じられた。

 

大体こんな感じ。実際問題、彼が唯我独尊と考えてて、行動にも反映されてるのは事実だと思うので(一年以上彼と関わっているので間違ってはいないと思う)、審査員の受けた印象そのものは誤っていない。

 

何が問題かというと、そもそもこの指摘は意味がある指摘なのか?ということ。

弁士は聴衆を舐めてるという指摘は象の鼻は長いという指摘と同様なのでは?と思った。

 

特に価値弁・啓蒙弁に強く現れる特徴だが、弁士は聴衆が知らないことを知っていてそれを伝えようとして演壇に立っている。聴衆が知らないことを私は知っていると思うことは弁士になる上で殆ど必須である行為だが、これは弁士が聴衆を舐めていなければ起こり得ない発想である。

 

つまり、審査員は弁士としての資質を持っていることを理由に減点をしていたことになる。

勿論聴衆を舐めながら素振りを見せないことが優れていると言うことは出来る。しかしながら、同時に弁士は自らの主張に自信を持ち続けなければならない、とも言われている。(実際に本審査員も述べている)

この二つはどちらか一方が欠けることは出来ない。(この証明は面倒だし本題とそれるのでしない)

 

レセプションの弁士紹介で、この毒にも薬にもならない指摘で、彼が涙を見せながら謝罪をしたことは、僕には不思議で仕方ないことだった。