自由と平等って大事なんか?

理性主義()によって提示される自由平等という理念

風潮として、手放しに自由平等を是としている現状がある。

愚かな民衆を相手取るという想定であれば、このまま用いるのでもいいのだが、私は諸弁士を馬鹿にしたくないので、一定の説明を付与したい。

相続制度廃止論の原点

当弁士は、自由平等が必ずしも是であるとは考えていない。

相続制度廃止論も、諸民衆が自由平等を是としていることを想定し、「自由平等が是であり、貫徹すべきとすれば、このような突飛な政策が是となってしまうけどいいの?やっぱり封建制度がナンバーワン!」ということを主張する為に生まれたものであった。(故に当弁士は当政策を感情的に否定され、風潮が逆行することを望んですらいるのだ!(勿論、自由平等とは程遠い世界を自由平等であると持て囃し、敗北者には自業自得と吐き捨てるのが関の山である。))

本当は我々は何を求めるのか?

自由平等と叫ぶ聴衆も、自由であり平等であれば、それで満足とは考えないだろう。(偉い人も自由とは刑罰であると言った人もいるくらいである。全人類が処刑されたがっているとは考えにくい。)

本格的に我々は何のために生きているのかを考えれば考える程、生きている意味などないことに気付き、ニヒリズムに陥ってやがて死ぬ。そして考えなかった者のみが淘汰され、生き残りそして振り出しに戻る。

生きる意味などない世界で、生きる意味を定義しようとした時、(自然主義的誤謬的ではあるが、)存続することを生きる意味と置いてしまうと上手く行くことが分かる。

生存することを世代を重ねながら続けていくこと。

これを目的としない生命体は存在しない

勿論、目的としているというのは超無意識レベルにおいての話であって、意識的に存続しようとしているかどうかとは別の話である。つまり、意志のない機械的な物理現象が生み出す因果の中に、存続を目的とするかのように動く個体が観測されているという話である。

この存続することと、自由平等をこじつける営みを行なっていく。

自由平等は存続に有益かもしれない

進化論的に存続が生きる目的なのだと主張しているのに、さらに進化論を乱用していく。

進化論的アプローチにおいては、変化すること(そしてそれが適応的であること)が勝利の条件である。(これは環境も同時に変化していくからである。)

この「変化すること」に対して、自由平等は寄与する。

適応が収束した状況からでも瞬時に変化しなければ存続は出来ない。何者かの方針に従っていては、このような変化は出来ない。

 

故に自由であることが重要である。それぞれ、個人は政府の方針にも、両親の方針にも従う必要はない。各々が自ら選択し、行動することが変化を生む。 

 

前の世代が適応的だったとしても、今の世代が適応的とは言い難い。

前の世代の評価が次の世代に受け継がれるべきは、その形質のみであって、その報酬ではない。

親が成功したとしても、子が同様に優れているとは限らない。

親の成功如何ではなくその受け継がれた形質が今の世代に適応的であるかのみを評価しなければならない。(勿論蓄財も環境の一要素と捉えることも可能ではあるが、その場合、身の丈受験発言と同じ発想に至ることになる。弁士はそれでもいいと思うよ)

故に平等が必要となる。

 

自由により変化を生み、平等によりそれを適切に評価する。

この働きにより、存続することが出来るのだ

以上で証明を終える