転売屋は経済学的に善なのか

市場原理についてよく考えると、転売屋の存在は明らかに前提とされているし、存在しないと成立しないように思える。転売屋は経済学的には善なのか?最終的に場合分けして論じていく。

ここでは転売屋を「ある市場で購入した財を別の市場で売ることで差額を得る者」としておく。

あらゆる商人がこの定義に当てはまっているが、当人のしていること自体本質的には変わらないというのが私の考えである。

転売屋が扱う財は主に以下の条件を満たす。

  1. 供給が独占状態にある(1社によってのみ供給される)
  2. 価格が変動しない(提示する価格によって優先されることがない)
  3. 全員が購入出来るわけではない(順番待ちや抽選による)

何故多くの商人と異なり、転売屋が忌み嫌われるのか、転売屋を利用する者が現れ利益が生まれるのかがこの財の性質にある。

転売屋がいない状態について考えてみると、既に市場が失敗していたことが分かる。現状を、転売分は売り切れていてかつ、定価で買いたくとも買えない人が存在していると仮定すると、定価以上で買いたい人に対して財の量が少なく、その場合量を増やすか価格を上げるべきなのだが、そうなっていない。(この点は供給側の理念や経営上不可避な要素が関わるので是非は問わない)

このような市場に転売屋が介入した時、単純により財を欲しがる=より高い価格で購入したがる人の手に渡らせているという意味で経済学が目指す状態に近づけているので善であると言える。

しかしながら、この時生産者余剰は増えていないにも拘らず、消費者余剰(それぞれの効用から価格を引いた分の合計)が減少している点を問題視している者も多い。とはいえこの点は、他の商人による行為にも同様に言えることであって、問題の本質ではないだろう。

では、問題の本質はどこなのか?

冒頭に転売屋は2市場の価格の差から利益を得る者と定義したが、この2市場の異なり方にも種類がある。大きく分けて2種類である。

  1. 空間的キョリが大きい2市場
  2. 時間的キョリが大きい2市場

1については、多くの商人が行うそれがこれに当てはまる。生産が盛んな場所から消費が盛んな場所へ運ぶ行為は、2点の需給バランスを安定させる効果があり、同時に多くの供給を産んでいる。転売屋が行う、特定の地点でのみ販売された財をネットオークションなどの場所で売る行為も原理的にはこれに当てはまる。現地に赴いて並んで購入したり抽選を当てることを委託しているという意味で我々が工場へ製品を取りに行かないことと類似している。

問題は2の時間的キョリのある2市場の価格差を狙う転売屋である。具体的には、今日の価格より明日の価格の方が高いと感じたときその財を売らずに保持しておく、といった2時点の価格差から利益を得ようとすることを指す。これは一般の商人にも言えることで、例えばコメは秋に収穫され他の季節には収穫されない。そのまま供給すると秋は供給過多で価格は低下し、それ以外は供給がなく価格は暴騰する。時間的価格差を目的とした保持はこのコメの価格差を均し、供給を安定させる。これ自体は悪質なものではない。

ここにある問題点は、価格上昇を期待することによる需要の増加が起こると、需要過多により価格上昇を起こすことにある。そして価格上昇が進めば保持し続けるインセンティブが働く。供給が減少すれば価格は上昇する。この循環が起きれば価格は急騰する。転売屋の時間的キョリのある市場の価格差から利益を求める行為はそれ自体が価格差を産むことが最も大きな問題点である。

転売屋が忌み嫌われる理由は買い占めではない。その後保持することにこそあると言って良い。保持するから価格が上がる。価格が上がるから買い占め保持する。

注釈として、1の空間的キョリのある2市場についても、厳密には時間的キョリがあるのだが、一般にこのキョリは商人がこれを不確定性や費用としてみる場合は考慮しないこととする。この際先の価格高騰の連鎖は起きない。

 

このように考えてみると一般に転売屋と言われる物ではないものも転売としての悪質さを持ち合わせることがある。例えば金融商品が挙げられる。日本市場で購入しアメリカ市場で売るといったことは想定せず将来空間的に同一の市場に売ることで差額を得ようとしている。実物商品であっても、例えば土地など、値上がりを期待して保持する場合も同様のことが言える。これらは保持し続けることで利益を産むことが悪質である点であると言って良い。彼らが財に対して値上がり以外の効用が得られないのならば、ただコストが掛かっているだけであり経済学的な観点から善である訳ではないということができる。

そう考えると、買ってすぐ売る行為は目の敵にされがちではあるが実は全体としての損失はそこまで大きいものではないのである。