働いて感じた疎外の本質

資本論ちゃんと読んでないので適当だけど知らん

一般に解釈されている疎外は本来労働者の物である成果物が資本家に取られてしまうこと(そしてその成果物によって支配関係が強固になること)を指している

まあ実際マルクスもそう捉えていただろうし、お前らの解釈が間違ってる!って言いたい訳ではない

ただ、この解釈は「資本家側の付加価値を軽視している」という反論に答え切れていない気がする。※結局のところそこら辺のどの部門がどの程度価値を生み出し、幾ら受け取っているのかを計算しないと分からないことであり、それのバランスを取れないことは計算していない以上仕方のないことであり、計算したらしたで、その計算の付加価値も計算する必要が出てくる。そういう意味でこの論の筋は悪い。

労働というのはその成果が上振れたり下振れたりする物だが、多くの場合で成果物は100%の物を求められる。99%でも101%でもなく、だ。この100%が意味する所は業務内容により様々であろうが、概ね求められる物をそのままお出ししないと良くないのは当て嵌ろう。雇い主はそいつにやってほしいことが明確にあって雇っているのだ。この時101%が許されないのは余り想像つかない人もいるだろうが、前の人は階段の上まで車椅子ごと持ち上げてくれたけどなと言って炎上した人が記憶に新しいが、稀に上振れると単に100%が更新されてしまうだけだったり、単純にやりすぎを求められていないことだったりして、許されないのである。

 

そうすると労働者はどうなるかというと、最初から8割で仕事をしてそれを100%だと言い張ったり、或いは100%になるまで残業するとかをしだす。(多くの業務で残業すればそのまま成果が増えて行くということはないが、、、)

後者が極まると上振れた120%で仕事をし、上振れなかったら残業をバリバリして、死ぬのである

いずれにせよこのような働き方は自然な在り方であるとは言い難い。この乖離を疎外と呼んでいたのではなかろうか。

そう考えると点が繋がる。マルクスの言っていた人間性の回復とはこのリスクを負うことであるし、疎外化は上振れによる基準の更新と埋め合わせが原因ということになる。問題はマルクスはそんなこと言ってないことだが。

リスクの外部化が疎外の本質であるのであれば、疎外は無くなることはないだろう。多かれ少なかれ保険は掛けておいたほうがいい。

 

そういう意味ではギャンブルは人間性の解放なのかもしれない。水原一平は人間の鑑 Q.E.D.

新卒新人エンジニアへ

動けば何でもいいと言っている先輩はフェイクだ。働かないことを正当化しているか、余りにもカスなお前の働きぶりをフォローしているだけだ。間に受けるな。第一、動いたってどこまで正しく動いているか確認したか?パンジャンドラムも前進するぞ。

過度な抽象化をするなと言っている奴もフェイクだ。独立している所は分けて書き、従属している所は一回だけ書く。それだけだ。本質をそのまま書けば正しい書き方になる。正しい書き方は沢山あるよという奴もいるが、そう言われた時点で何かしら間違っている

 

じぶんの手元に来た時点で全部間違っていて、手戻りも許されない状況は多くある。既に所々窓が割れていて取り敢えずやすりを尖っているところに当てて擦るしか出来ないようなことがある。

それは間違っている。まあでもしょうがないな、磨くしかないもんな。お前はそうならないようにしろよな。動けば何でもいいしな。

何故生成AIにプログラマが反対しないのか

という主張を見たが、間違いだと思った。

というのも、プログラマの領域はあらゆる点を見ても未だに侵されていないからだ。ただしOSS開発者などの実際に侵害されている立場は普通に反対していたりするので除外する。

 

一見してプログラマの仕事領域を侵害しているように見えるものも、利用用途、状況を考えると、ggって出てくるSEO対策済みのwebサイトが代替されているだけで、ここで侵害されているのは、システムエンジニアリング領域のWEBライターであり、彼らは同時にエンジニアであるかもしれないが、それよりも文筆業としての側面を侵害されているのである。

 

であるから、今後生成AIによる権利侵害がプログラマを襲うまではここの判断は保留せざるを得ない

しかし、セキュリティリスクなどの観点で反対意見が出るのは十分考えられるのでそこは切り離していきたい

 

私はあの程度のプロダクトがAIと呼ばれていることが気に食わないのだが、それもまた別の話だ

紫紺の振り返り

正直去年は言うことが無かった。語るまでもないカスと語るアテがもうない本質だけだった。それどころじゃ無かったのもあるが、そんな感じだった。たくさん言いたいことがあるとだけ書かれたブログの下書きがあったことだけは申し添えておく。

実のところ今年もそうなのだが、語りどころがあったので筆を執った次第である。

本当はもっと早くに書いておきたかったのだが、あれからすぐに床に臥せてしまったのでできなかった。というかその旨を早く伝えるべきだった。体調不良になったもの、してしまったもの、申し訳ありません。

優勝弁論は、複雑なものは複雑なものとして扱おうという極めて本質的であるが故に何も言っていない弁論だった。未来に対する道しるべはなく、ただただ、弁士の諦念だけが漂っていた。森を分け入ったら崖にたどり着いた、といった感じである。己の限界にぶち当たってどうしようもなくなった弁士という意味では同部弁士も同じであるといえる。ただ、こちらは道しるべを打ち立てていることが差異であるか。もちろん、それが弁士としては軸がずいぶんとぶれているようであるが。

私が現役の時、紫紺で弁論弁論をすべきといったのはこのような、弁論の枠組みを飛び越えて、就活であったり卒論であるような別種の言論活動に触れた上で相対的な視点を持ちながら、それでいて自身の限界にも気づいているような、最終学年生による遺言、やりきれなかった思いを共有すべきであると、考えていたからというのがある。審査員長が流れが変わったと言っていたが私はようやく始まった、つまり限界がやっと見えてきたという所感である。ここからは崖に指をひっかけるような、辛く、険しく、つまらない弁論が続くことだろう。だが、それがいいのだ。

 

複雑なものを複雑に扱うべきだというのは、現代にいたるまで主力だった分割統治法に対するアンチテーゼという意味合いがある。ある問題があるとき、それを小さな問題に分割し、その小さな問題を一つずつ解決していく。もし解決しきれないのであれば、さらに細かく分割する。クソデカ四角錐をいきなり作るのはむつかしくとも、デカいレンガを1つずつ積むことはできる。だが、分割方法を間違えれば、ただ無意味に複雑なものになる。

子供を預けることができる施設である保育園とこれまた同様に子供を預けることができる幼稚園のその管轄は異なる。この例事態はこども庁によって解決させようとする動きこそあれ、このような意味の分からないところでの分割というのは後を絶たない。いわゆる縦割り行政というやつだが、それでも割らなければおよそ認識可能な複雑さに抑えることはできないのである。

実際同大会では、知る自由にたいして、二つの障害を例示し、弁論内ではその片方を挙げることで奇麗に収めた弁士がいた。(聴衆にとってはそれでも大きすぎて更なる分割の必要はあったようであるが。)かなり良い分割統治であったといえる。しかしながら、その一つの解決策は、もう一つの問題を助長させてしまうという課題があった。もちろんポケモンの性格は無補正でない方がいいのと同じように、最終的に問題を解決させるには多少アンバランスな政策を打ち出す必要性があることがあるのは然りであるから、評価はしきれないのが実情である。つまるところ、この世の全ての問題について解決策を提示し、問題*解決策通りのそれぞれの関係について悪影響が出ないか検討する必要がある。ようするに複雑なものを封雑に考える必要が出てくるということである。

あまりに複雑な社会であるから、分割して統治する必要が出て、それで一定の成果は出たものの、分割されたもの同士で想定外の干渉を引き起こしたり、無駄な分割が解決を妨げることがあるから、一度巨視的に見渡す=複雑に理解する必要がある。というループに陥ることになる。解決策は頑張るしかない。その通りだ。

だが、実際のところ、パズルが目の前にあったらとりあえずおいてみて考えるというやり方が有効であるように、おいては直しを繰り返すことで、そこまで複雑に考えなくとも解決に近づく可能性もある。現実社会は間違った場所にはめられたパズルの集合のようなものである。一旦取り壊して整理することで複雑さを低減させることができる。

しかし、現実社会は置いて外してを繰り返していいようなものでもない。

そして、そのような試行ができるような場こそが、弁論大会であるべきではないかなどと思っている。弁論は社会変革には、ずいぶんとかけ離れた場所にある、という指摘は的を射ているように思われる。私たちはお手製の銃を作って元総理を射殺したり、フェスをデスにすることだってできるのだ。社会人になってから思うことは、社会はずいぶんと容易に変えることができる。学生ですら、社会に変革をもたらすのは難しいができないこともないし、ただ影響を及ぼすだけなら意外といけるものだ。

だが、やってみて戻しての繰り返しはイーロン・マスクのふるまいにツイッター(Xともいう)民が辟易としていることからもよくわかることだ。ただの1サービスに過ぎないものがこうならば、政府主体がこのようなふるまいをすれば辟易では済まないだろう。

実際、社会を変革しないでも成立するようなパズルの置いてみる、は学生風情が10分程度語る、あたりではなかろうかと思う。

かなり厳しいきはするが、ラバーダッキングという方法が一つの解決策としてあるように、これだけでも意外とデバッグの役割は持っているものだ。

そして、その語りを聞いて、なんとなく心の隅に置いて日常に戻る。そしてそれが正しい置き方であったのかなんとはなしに考える。もしかしたら別の置き方があるかもしれないと思いつく。そういう超間接的な総当たりでしか解けない問題があるのではないか、と思うのである。

ようするに、弁士と聴衆らは、弁論大会を通じて一つの脳を構成するのである。これが複雑なものに複雑なまま扱うための私なりの解である。

著作権の保護法益を考える覚書

単純に財産権としての性質を考えるのであれば財産権のそれをみればいいのだが、実際の所財産権として括れるものでもない気がするので改めて思ったことを書き記したい

生成AIの話を念頭に置くが、どちらかの意見を擁護するものではないし、説得する物ではない

 

 

著作権には作った人である著作者と、その被造物たる著作物がある。ここで人を大文字、ものを小文字アルファベットであらわすと、著作者Aが著作物aを作ったと表わせる(ここでは大小アルファベットの組をその著作関係にあることを意味することとする)

この組み合わせをA-a関係とするとき、それを他者に認識されることをA-a認識と呼ぶことにする

A-a関係には誤認として、

A-b認識(Aが作っていない物をAが作ったと認識される)と、

B-a認識(Aが作った物を別の人が作ったと認識されること)があり得る。

 

B-a認識は多くの人にとって問題であると認識されているように見受けられる。そして、多くの議論ではこれを前提としているようだ。財産権として見れば、この認識が成立するのはBがaを奪うことでしか成立しないので、これが問題であるのは自明のように見える。

 

対して、A-b認識は直観的にはAにとって問題であるようには思えない。が、生成AI周りはこちらの問題の方がAにとって問題であるように見える。

分かりやすいのがdeepnudeのような人物A(の顔若しくは体)に対し、人物Bの(或いは何者でもない)裸体bを合成し、A-b認識を成立させる時、人物Bの権利より、人物Aの権利がより侵害されているように感じられる例だろうか。(このとき当然Bの権利も侵害されているが、比較的問題とされていないようだ)

これを著作権における絵柄問題に対応させれば、絵柄がAの顔であり、生成された絵が裸体と言えるかもしれない。

 

つまり、その絵柄が特定の誰かが書いたものであるという認識を観る物に与えるとき、その絵がその誰かに帰属するように認識されるが、その誤認が問題であるのではないだろうか。

両方の誤認について考慮されていることを確認する必要があると思う

カスの横展開をやめろ

DRY原則の話をします。

 

ここでいう横展開とは、「ある箇所で発見・実施された改善手法を他の箇所にも当てはめること」を指す。特にシステム開発の現場で、障害対応や殆ど仕様変更のような指示で実装に変更が加わった際、指摘された箇所以外に同じような変更をする必要があるとき、それを(漏れなく)実施することについて話す。

 

そのような横展開にはカスの横展開とカスではない横展開がある。

カスではない横展開の例として、他部門が開発する製品について、特定の障害が見つかった時、その対応策を共有することが挙げられる。アップデートしてねとかそういう奴だ。

カスの横展開は同一製品内での変更をその全ての機能に適用させることだ。

設計書であれ、実装であれ、ある記載の変更が別の記載を(必ず!)変更させるのであれば、それがカスだ。実務上どうしても発生してしまう(し、発生した時点で対応しなければならない)のは承知の上で主張するが、カスの横展開が発生した時点で、製品がカスであることを認識しておくべきだし、カスの横展開がないようにしておくべきだ。

 

これはシステム開発にはDRY原則という物が適用できるから成立する主張だ。例えば、家を建てるとき、1階のトイレに変更が加わったら、2階のトイレにも影響が及ぶとみて間違いないだろうし、それを回避することは難しいだろう。

DRY原則とは、システム内でのある知識は1カ所に書かれているべきというものだ。勿論、物理的制約などの理由で、そのように出来ない場合は多い。

例えば、スーパーで消費税の計算をしたいのであれば、*1.08と書くのではなく、毎回(或いは定期的に)消費税法を参照しておくべきであるが、実際にはそうしてはいない。そうしていれば、税率が変更されても一々値札を変える必要はないが、値札は印刷されている必要があるため、直接税込み価格が記載された紙として現れている。少なくとも、印刷する手前の計算式が現れる箇所で、1カ所だけ修正を施せばそのスーパーでは修正が完了するようになっているのが望ましい(そうすれば値札の張替えはなくせなくとも計算式は一度直せば済む。)

 

カスの横展開とはこの計算式を色んな所に記載しているために発生しているカスの作業だ。

カスの横展開の問題点は単純に作業量が増えて面倒である以上のことがある。

ある変更Xが類似の箇所Aを変更するが、箇所Bは変更を及ぼさないことがある

現在消費税は10%だが、8%から10%に上がらなかった物もある。

このとき、消費税が決まるロジックを1カ所に纏めれば、複雑怪奇にはなるとしても、読んで理解することが出来る。(これを消費税法という)

が、商品ごとに8%,10%、8%と振っていけばどうか、もはや振った値が誤りかどうかさえ分からなくなるし、次の改正時に(下がっていることを願いたいものだが)変更する際、どう変更してよいかもわからなくなる。

 

もし、横展開と称して、このような変更作業をすることになった時、作業者は最早変更指針などない状態で実施しなければならなくなる。もし変更指針など考えず、実施できるものであるのであれば、共通化が必要であるし、そうでなくとも、横展開の必要性が感じられるほどに共通があるのであればそれはひとところに纏めておくのがよいのである。いずれにせよ、横展開と称して設計書の森に探検に行く必要が出てきたのであれば、視野を大きくして問題を認識した方がいいだろう。無論、そんなことしている時点で解決など出来ないのであるが。

 

ところで、DRY原則というとやりすぎは善くない!と主張する輩が多く出る。どうせ編集距離を短くした修正をDRY原則と呼んでいるだけだからそう思えるだけで、系内の知識をひとところにすることにやりすぎなどないのだ。ただ、正しい知識形態があるだけである。やりすぎのDRYはなく、誤った知識体系だけがある。

 

ところで、重力加速度は9.8毎秒毎秒というのは余りにも行き過ぎたDRYだ。