荒ぶる季節の乙女どもよとかいう神アニメ

 

第1話 豚汁の味

第1話 豚汁の味

 

こんなお話。

官能小説読む部活やってる女子高生が、セックスについて考え、そして振り回される物語。

 

これほど性について深い考察を真っ向からした作品はあったろうか。

我々が存続する上で必要なのに禁忌とされる、この矛盾を抱えた怪物に向き合おうとする少女達を描いた作品が。

 

学術的な論点なんて腐るほどあるので、各自観ながら拾っていって欲しいのだが、一個だけここで話そうと思う。

 

部長の眼鏡は極度に潔癖で俗な(非文学的な)性表現を口に出すのも憚るのだが、部活の性質上、ソレを指し示す語を口にする(ここでいう口にするとは発言するという意味である)必要性があるので、せめて仲間内でしか通じない隠語を使おうとした。

最終的にえすいばつという語を発明した訳であるが、どんな語かは問題ではない。

 

問題は隠語を用いようとする態度である!

 

普通に考えて分かるよね?おまんこに赤面するからアワビって呼んでたらアワビでも赤面するんですよ。

作中でもえすいばつで赤面してるし。

 

なので、この名付けは禁忌の範囲を拡大したに過ぎないって訳ですよ。

この手の話を以前弁論大会でやったんですけど、この行為の滑稽さってもっと文字数割かないと伝わらないんでしょうか?

 

この辺にしておきますけど、荒ぶる季節の乙女どもよって作品はガチなんで観て下さいね

確かな生きる意味はあるのか

ねえよ

 

まあそれでも何か意味を見つけなければならない

それも簡単には否定できないようにちょっとした詭弁的根拠のある意味を

 

確かな生きる意味が仮にあるとして、その生きる意味はどのような性質があるのか。

それが確かであるというのは、どんな状況でも当てはまると言い換えられる

つまり生きる者ならば今も昔もこれからも持ち続ける性質に由来する

その性質とは子孫を残し続けることである

 

生きる意味とはその種を存続し続けることにある

 

勿論子を産めばそれでよしではない。その子が健全に成長し、また子を産む必要がある。評価は無限に先延ばしされて、今我々が行きていることで先祖の生きる意味があったのだろうというふうに暫定的に評価されるのみでしかない。

勿論存続出来ない者も出てくる。彼らが生きる意味がなかったのかというと必ずしもそうではない。働きアリのようなそれ自体では繁殖はしないものの存在するだけでその種を存続させることが出来る個体もある。

自ら存続せんとするも叶わない者もいる。そもそも遺伝子による存続は100%超人を生む物では決してない。(そもそもの特性として突然変異というイレギュラーを発生させる機能に由来する側面もあるが、仮に優れた遺伝子で100%超人を産むとしても、彼らが100%凡人になるに過ぎないことは容易に分かるだろう。)つまりそのような個体の発生も存続に帰するものであると言える。

 

仮に存続を志向しない種かあるとして、それらは一瞬存在することはあってもそれらは残らず、最終的に存続を志向する種のみが残ってしまう。

 

であるから生きる意味とは存続することだと定義してしまうことが最も妥当であると考える

経済学が机上の空論であるたった一つの理由

こんにちは、経済学科の学生です。

経済学というのは、実学のような風体なのに使えない学問と言われたりします。

何故使えないのでしょうか。厳密に予測出来ずとも、指針にはなり得るのではないでしょうか。

 

勿論沢山の理由はあるのですが、根本的な理由としてはやはり一つに絞られていきます

 

経済学が前提に置いている人物像が有り得ないから。

 

経済学が前提に置く人物像は経済人と呼ばれます。

 

経済人とは「自らの幸福度を最大化する為に手持ちの資源を最大限活用する人」と定義することが出来ます。

 

ここで問題となるのが手持ちの資源に含まれない物がある。

思考資源です。

 

経済人は手持ちの資源をどのように配分するかを決めるにあたっては無限に悩み続けることが出来ます。

 

しかし現実の人間は度々決断に迫られます。1日、いや一分一秒と待ってはくれません。

思考資源は有限なのです。

 

経済学は如何に有限な資源を有効活用するかが主眼に置かれます。

それにも拘らず有限である思考資源を無限のものとしてしまっていた。

そこが経済学を机上の空論たらしめていた要因だったのです。

 

 

 

ところで、思考は有限であると認識を改めて世界を眺めていると気付けることがあります。

 

この世の生きとし生けるものは経済人である。

 

皆思考資源を最大限有効活用している。知性()によって導かれた最強の配分だけが合理的判断ではないのだ。

意味のないように見えても意味はある

功利主義的な視点で(或は其れ以外で)社会を視ると、如何にも非効率な行為が散見される。左様な行為は其れ等を優位にする風潮に依るものである。功利主義的には望ましくないが、利己的には望ましい事が在るのだ。その行為は属する集団の利にはならないものの、属する集団の中で優位に立つ事を可能にする。

 

例えば学歴。学歴を得る為の選考として扱われる受験勉強自体にはなんら社会的利益はない(要出典)。大学ないし教育機関内で行われる勉学も社会的利益もない。実際学校で習った事など実社会で役には立たないと宣う人の多い事。勿論この背景には彼等のバイアスに問題が在ると主張は出来るが、ここで主張したいのはそのように利益にならないとしても彼等は学歴を得た事を後悔はしないだろうという事だ。彼等は左様な現状に無力感を覚えたとしても学歴を得た事に依る利益は甘受出来ているからである。

 

このように全体としてなんら利にならない行為でも個人として利になる行為が在るのは確かで、其れ等を可能にする効果をシグナリング効果と呼んでいる。

 

このような無駄な行為をしているのに平然としているということはそれだけ有能で人的資源を有しているということだ。

或る人の詳細な情報を持たない時、其の人の評価をしたい時は以上の判断をする事が在る。

当然其のような評価がされたければそうする他ないのだが、社会的視点からすればこれは無くさねばならないことである。

 

解決する方法は3つほどある

1.十分な情報を与える

2.抑も評価をさせない

3.見なかったことにする

 

十分な情報があれば其のような判断はしない。が、出来ればやっているので無理である。

抽選のような方法を取らせればシグナリング効果は失われるが自由の原則に反するとして実現不能だろう。

 

確かにシグナリングがもたらす不経済は莫大だが、無くすコストと照らし合わせると大したコストではないかもしれない。

意味のないように見えても意味はあったのだ。

選ばれた者にしか弁論が出来ない理由

弁論とは、何か解決されない社会問題に対して、演説を行うことで解決に導こうとする行為のことである。

社会問題とは、ある集団にとって改善されねばならない事柄のことである。

 

社会問題は2つに大別できる。「どうでもいい(とされる)事」と「どうにもならない(とされる)事」である。

 

特に今回の主張では排反である事は示さなくても良いが、排反であるという事は出来る。どうでもいい且つどうにもならなき事は深刻性も実現性も乏しく抑も問題として認識され得ないからだ。(勿論認識されないだけで問題として存在はする。日吉杯ではこの手の弁論をしている。)

 

どうでもは良くない且つどうにかなる問題は存在しない。そのような問題が有れば積極的に解決され、既にこの世に存在しない問題だからだ。従って一瞬そのような問題は存在しうるが、時が解決するので我々は何も出来ない。

 

どうでもいい事は先のどうでもは良くない事より後回しになるので問題は依然残ってしまう

どうにもならない事は当然問題として残る。

 

従って「どうでもいい事」か「どうにもならない事」がある。

本当にどうでもいいかどうにもならない場合は我々は何もする事は出来ない。何を主張しようとも空振りに終わる。

 

従って社会的にどうでも良いかどうにもならないと思われていた事が、実はどうでも良くなくどうにかなる時にのみ、我々は弁論をする事が出来る。

 

つまり、ある問題について社会が認識していなかった深刻性か実現性の高い解決策を見つけて示さねばならない。

 

然し乍ら凡人は社会と同じ見方をしている。

従って弁論は選ばれた者にしか出来ないのだ。

 

とはいえ、凡人にも実のところ弁論は出来る。というのも、社会の構成者は同じ視点を持っている訳ではなく、差異が存在しているからだ。

凡人は知られていない超人の言説をどうにかして見つけ出しそれを広めることは辛うじて出来る。

 

弁論は一部にのみ知られていた事を広める行為にしか過ぎない。その一部が弁士であった必要性はない。

 

どちらにせよ難しいことには変わらないのだが。

春秋杯の奴、原稿が完成したけど選考会も始まらないので適当に投げる

投げるだけ投げるけどあんまり対策はしてほしくないなと思いながら聞いて回って全員ノーコメントも面白くないので

演題:戦え!何を!?弁論を!

 

(期待する―!)

何を?

何を弁士に期待しているのですか?

貴方は何故!何故あなたはそんなバカみたいな声をあげて期待する!なんて言っているんですか?

皆さんは弁論に何を求めているのでしょうか?

聞いてみましょうか

 

(演壇を降りる)

審査員の皆さんのは審査講評で纏めて聞けるので他の聴衆の方から聞いてみましょう

急に言われても困るでしょうし答えられない方はノーコメントで構いません。

長すぎる場合はこちらから中断させてしまうことをご了承ください。

 

あなたは弁士に何を期待していますか?

(何らかの返答)

(何らかのコメント)

(繰り返し)

 

皆さんありがとうございました。「皆さんが色んな点について期待していたことが分かりました。」しかしながら、聴衆の皆さんからは期待する!としか言われていませんでした。我々弁士は勝手な話ですが、こういう弁論を期待しているだろうと思い込んで自分がやりたい弁論とは違う弁論をやってしまう。弁士の皆さん、今まで若しくはこれから弁論をやる方は予想していた期待とどのくらい差異がありましたか?

 

私は私が知らなかった話を期待しています。然し弁士は私の知る範囲など知ったことではない。期待に応えるすべはない。期待に応えられるなど期待すべきではない。だったら最初から言いたいことを言えばいい。

 

演題の「戦え!何を!?弁論を!」は、1992年にロックバンド筋肉少女帯が発表した曲「戦え!何を!?人生を!」が元になっています。

その冒頭の歌詞には、「才能の枯れた奴がいた。彼の人生は退屈だった」とあります。

弁論界隈には才能溢れる人が多くいました。

しかし、聴衆の期待に押しつぶされ才能を枯らしてしまった。

そうなると彼らの弁論は退屈になってしまいます。

 

期待に負けず、貴方が言いたいことを言ってほしい。

全ての弁士に期待する。

 

戦え!(何を!?)弁論を!!

無能に優しい世界を

注意 これは愚痴である。時間の無駄だから引き返すように。

 

私は無能である。なんら創造性などなく、それでいて高らかに創造を!創造を!などと謳う。創造力もなければ創造する気力すらない。現にこのブログでウンウン唸ってはいるものの、それを読者に効果的に伝えんとする努力もない。はてな記法とかいうもので書けば文字サイズや色などを指定して分かりやすく目に映える文を作れるのだが、それをやろうとさえしない。私は無能である。創造力のカケラもない。それでいて破壊衝動は人並み以上にある。これは小学生の時点で自覚していて抑えん抑えんとするもその衝動は不意に訪れてしまう。中高の同期方には迷惑をかけた。私など生きていても社会に害であるなどと自死を考えるもそれとて破壊衝動で、社会にとって労働力を削るだけであるなどと思いながら今まで生きている。私は無能である。勿論この世に私だけが無能という訳でもないらしく、私が死ねば有能を前提とした社会で居られるわけでもない。だから私は主張する。無能に優しい社会を!私は無能に優しい大いなる支配者を求めてきた。然しそう大いなる支配者など存在はしない。大いなる支配者なくともマシな社会をまとめねばならない。私はある代表に期待した。この非効率な団体を変える!引き継ぎはする!なんと喜ばしいことだろう。引き継ぎがされれば無能である私が考えるまでもなくその通りすれば良い。然し一向に非効率さは残る。仕方ない。大いなる支配者など存在しなく、目の前にそれがあるなどと期待するだけ無駄である。彼はよくやっているはずだ。理念に誤りはなく、ただ力不足だったに他ならない。はずだった。私は演練補佐を頼まれ、業務に携わった。メーリスの送信を頼まれた。このメーリス、楽々連絡網というソフトウェアを用いて行っているが、これは賛否両論ありラインに統一すべきではという声もある。私はこれは無能に優しくないと言って廃止を提言したが却下されてしまった。送信文を求めたところ提示された春秋杯の募集要項。嗚呼なんと効率的か。もう春秋杯の募集をするとは。そう感心し日付や送信者の名義を変え送信すると翌日訂正文の送信を求められる。変更要求として締め切りが昨年は6/15だったのが4/6になっていた。嗚呼なんと効率的か。それほど早くに募集すれば原稿を練る時間も確保できるというものだ。そこを訂正して送信する。また暫くして訂正要求を戴く。春秋杯ではなく五月杯だと。それもそうか。五月杯の募集をせずに先の募集をするなどと。たしかにこれは気づくべきだったかもしれぬ。私が無能でさえなければ、気付けた問題であろうと。まあこれは仕方ない。引き継ぎが完全ではなく直前であったこともあり、これは致し方ない事故であった。今後十二分な対策を考えていこう。無能は私だけではないのだから。然し事態はそうはならなかった。次の執行部会議のことである。私は書記局長を任されていたので議事録を取ることとなった。そこで渡された初めて見る議事録フォーマット。これを初見で理解して埋めろというのかと驚愕した。無能なわたしには質疑を上から下まで真っ直ぐに書き下ろすのが精一杯だというのに二次元のマスを埋めて行かねばならぬのか。然し議題が空白のまま渡されるとはどういうことか。私は書記をしながら今なんの議題がなされるのか初見で理解し文字に落とし込まねばならぬのか。議題と概要の違いとは何か。結論とは何か。ここに議事録を流し込めば良いのか?それでは限りなく縦長な議事録になるがいいのだろうか?結論から言うと議事は混乱を極めた。挙手せず発言をするし(これは野次として捉えることができ、議事録に残す必要がないとも言えるのだが、野次によって議事が進行してしまっていたので無視ができなかった)、発言が早いのでタイピングが追い付かない。それなので不完全な議事録しか取れなかったので代表に補完してもらわんとしたが、結局完成したのは「○○について ○○について決めよう 決まった」といったもの。私のタイピングを返してくれ。まあそこら辺は次回以降改善されるだろう。然し改善されないのでは?という疑念も残る。議事中に先に述べた私の失態について議事長が述べた。君達は働かなすぎる。私らはろくに引き継ぎなどなくとも自分から調べてやっていたぞと。どうやら現状を改善する気もなければ無能への配慮も考えてないらしい。まあ、一年も接していていれば察するぐらいはできたことだが、こうまで直接的に言われてしまうと悲しいものがある。私は無能である。無能にも優しい世界を求めている。私は無能である。私には世界を変えることなど出来ないだろう。私は無能である。然し、無能でなければ変えようとも思わないのかもしれない。私は理想郷を虚しく追い求める。