功利主義的な視点で(或は其れ以外で)社会を視ると、如何にも非効率な行為が散見される。左様な行為は其れ等を優位にする風潮に依るものである。功利主義的には望ましくないが、利己的には望ましい事が在るのだ。その行為は属する集団の利にはならないものの、属する集団の中で優位に立つ事を可能にする。
例えば学歴。学歴を得る為の選考として扱われる受験勉強自体にはなんら社会的利益はない(要出典)。大学ないし教育機関内で行われる勉学も社会的利益もない。実際学校で習った事など実社会で役には立たないと宣う人の多い事。勿論この背景には彼等のバイアスに問題が在ると主張は出来るが、ここで主張したいのはそのように利益にならないとしても彼等は学歴を得た事を後悔はしないだろうという事だ。彼等は左様な現状に無力感を覚えたとしても学歴を得た事に依る利益は甘受出来ているからである。
このように全体としてなんら利にならない行為でも個人として利になる行為が在るのは確かで、其れ等を可能にする効果をシグナリング効果と呼んでいる。
このような無駄な行為をしているのに平然としているということはそれだけ有能で人的資源を有しているということだ。
或る人の詳細な情報を持たない時、其の人の評価をしたい時は以上の判断をする事が在る。
当然其のような評価がされたければそうする他ないのだが、社会的視点からすればこれは無くさねばならないことである。
解決する方法は3つほどある
1.十分な情報を与える
2.抑も評価をさせない
3.見なかったことにする
十分な情報があれば其のような判断はしない。が、出来ればやっているので無理である。
抽選のような方法を取らせればシグナリング効果は失われるが自由の原則に反するとして実現不能だろう。
確かにシグナリングがもたらす不経済は莫大だが、無くすコストと照らし合わせると大したコストではないかもしれない。
意味のないように見えても意味はあったのだ。