そういえば、事前に原稿晒しておく奴をやっておきます

あまり意味ないんですけど、原稿事前に出来た奴の特権ですよね

ただ、多分僕はこれとは違うことを口走ると思います

"期待する" この文化いいですよね。

同じ場所で、同じ言葉を、同じタイミングで叫ぶ。

これほど気持ちのよいことはありません。

入部して何度と聞いたか分からないこの言葉ですが、僕にはずっと疑問に思うことがあります。

何を期待するのでしょうか。聴衆は一体何を期待して、弁論を聴きにわざわざこの会場に来るというのでしょうか。

 

期待される弁論とは何でしょうか。

弁士が出てくる度二回も、1日に20回も皆さんは、期待する!と叫んでる訳ですから差し迫った願いがあって然るべきです。

こういうときは、当事者に聞いてみるのが一番です。

ですから聞いたことがあります。「あなたは何を期待する?」

「新しさ」でした。回答者の多くは新しさ、新規性を期待していました。

ところで弁論における新しさとはなんでしょうか。

例えば、弁士の口からウクライナの状況が述べられたとして、それはNEWS番組でアナウンサーの口から発せられるそれより新しくあることは出来ないでしょう。

弁論が提示しうる新しさとは何でしょうか。

何故新しいことを期待するのでしょう。

そもそも弁論とは一体何なんでしょうか。

 

知らない人に「弁論とは何か」を説明するとき、スピーチみたいなもの、みたいな説明をしますが、

「それはスピーチであって弁論ではない!」とおっしゃる方もいらっしゃいます。

弊部では、弁論を「自らの弁舌や身振りを用いて説得を試みる営み。」と表現されることが多いです。

説得というのはつまり、聴衆の考えとその行動を変えることですが、その行動の変化によって、弁士の目的を達成する、例えば社会を変えようとする狙いがあるわけです。

言い換えると、弁論とは、ある目的を達成する為、人に行動を変えてもらうように何かを言う行為全般を指す訳です。我々が弁論と聞いて思い浮かべるには余りにも広すぎる定義です。

「ちょっと醤油とって」これも弁論になるかもしれません。

 

我々人類が扱う言論の在り方の殆どを包括している定義ですが、今回話したいのはもっと狭いここ、弁論大会、更に言えば“学生”弁論大会で行われる弁論です。

我々が弁論と聞いて思い浮かべるものは、弁論大会で行う弁論はもっと幅が狭くて、

「本弁論の目的は」「解決策を2点提示します」といったお決まりの文句が登場するアレ、ですよね。

話す内容は政治的で例えば、どこかに困ってる人がいて、そのためにパイを多めに分けてほしい。

こんなに困ってるのはこういう背景があるからで、こういう仕組みがあれば解決するんじゃないか。

 

そういうのが我々がいう「弁論」ですよね。

これの話をしたいんですが、この我々のいう弁論をうまく説明する言葉をついぞ見つけることは出来ませんでした。

 

期待される弁論とは、弁論の新しさとは何かを論じるにあたって、こういう声をよく聴きます。

出てくる弁論が金太郎飴のようにどれも同じ展開でつまらない!

ようするに話の展開の仕方が新しくないということですが、これは弁論の本質ではないし、我々が期待する新しさではない。

 

話の展開にテンプレがあって、それに沿って話すことは別に悪い事ではありません。作るのもそうですが聞く方もストレスなく聞くことができます。ストレスなく聞けるならより多くの情報を伝えることが出来ます。

よく、“展開が予想出来てしまう”というデメリットを言う人もいますが、話が早くていいじゃないですか。もしそれが問題になるなら、それはその中身が期待外れだった時だけです。

 

ただ、テンプレに沿った弁論の多くが期待外れになってしまいます。何故か。

 

「テンプレに当てはめる」という作業で捨てられた何かがあったはずだ。

付け加えられた要素があったはずだ。

 

それが弁論に期待されているものなのか、考えることなく機械的に当てはめてるんじゃないのか。

審査員ウケがいいからやってるだけなんじゃないのか。

別に審査員が点数付けたからって説得力が高いことを意味しない。

ただ採点したら点が高かっただけだ。説得的だなあって思った審査員が今まで何をした?

冒頭に言ったな?行動を変えるところまでが説得だ。

行動を変えた審査員がいたか?

高い点数が付いたのは説得されたからではないだろう。

説得するための弁論を作るためのひな形は、説得力と似て非なる観点で評価され、淘汰される。

 

そら審査員も審査員だ。

勿論審査員には審査員の事情があることは分かってる。それでも、説得とは何か、弁論はどうあるべきかについては考えておこなってほしい。

もし、弁論がどうあるべきかを考えていたならば、ただ自分と問題意識が似ていただけのものを評価することはない。

以前から関心を持っていたテーマを取り扱っただけの弁論で審査員は説得されたのではない。

共感しただけだ。

共感は説得ではない。聴衆の考えは変わらないし、行動も変化しない。

 

目的を見失うな

 

 

なんで弁論やってんだ。

賞が欲しいのか?

先輩にやれって言われたからやってんのか?

弁論ってそういう物じゃないだろう

説得したい何かがあったんじゃないのか?

変えたい社会があったんじゃないのか?

それで社会が変わると思ってるのか?

 

或る時、訓練本質説という考え方が提唱された。

“”“こんな小さな場所で何言っても社会は変わらない。

だから今やってんのはあくまでも練習だ。

いつか来る本番の為に、爪を研いでいるのだ。“”“

 

理屈は分かる。いずれにせよ、このままじゃ力不足で、訓練は必要だろうとは思う。

だけど、訓練だからと言って、説得をしようとしないのはナンセンスだ。

説得する力がないのは別にいい。これから身に着ければいい。

だが、俺が本当に危惧しているのは説得することや、説得する意志がないことだ。

聴衆の考えや行動を変えてまで実現したい何かがないんだったら、演壇を降りろ。

自分の為に自己成長したいだけだったら、壁にでも喋ってろ。話はうまくなるだろうよ。

 

わざわざ、人前にたって、弁論をするのなら、その人を変えようとしろ。

その先にある、社会への影響を考えろ。

目的は達成されないかもしれない。

でも、弁士には演壇に立つ以上、目的を達成しようとする意志を持て。

 

聴衆が期待してるのはココなんじゃないかと思う。

弁士が弁論を通じて実現したい社会の在り方を知りたい。

変えたい物は別に社会でもなんでもいい。

ただ、本当に弁士に変える気がある、そう思わせてほしいんだ。

 

訓練本質説を否定すると別の疑問が出てくる。

本当に変える気があるなら、こんなところで弁論してる場合なのか。

弁論以外にも言論の場はある。説得を試みる場ならいくらでもあるんじゃないのか。

なぜこんなちっぽけな会場で喋っているのか。

Youtubeだかで雑談配信している方が人は大勢くるし、

賛同者を集めて署名運動なりなんなりしたり、直接政治家に訴えた方が実現は早いだろう。

何故それらをせず、こんなすぐ揚げ足とって騒ぐ、話の邪魔にしかならない連中相手に喋っているのか。

 

そういう疑問は前から行われており、Youtuberになってみたり、街頭演説してみたり、noteをやってみたりと、いろいろやっているのを傍からみて言えることは、

まずこの会場はちっぽけでもなんでもないということです。

この会場はその問題を解決に導くには少し力不足かもしれませんが、他のそれらと比較すれば十分大きい。

ただ、我々が無力なだけだ。

発信力がないだけじゃない。

ただのイチ学生には知恵も知識も能力も足りていない。

それでも変えたい未来がある。

ただ、現状を変えることは出来ない。

私たちに現状を変えることが出来たのであれば、他の人が既にやっているはずだ。

現状に現実的な解決策を示す弁士は、それはそれで優秀だが、

そのような解決策は実は実行不可能か、既にやっているか、

政治的に圧力を加えれば実現するかのいずれかである。

実行不能ならその話に価値はないし、既にやっているならこれもまた無意味だ。

政治的に圧力を加えれば実現するのであれば、今すぐに団体を立ち上げればよい。

演壇から降りてすぐ署名を集めるのではないのであれば、現状を語ることに意味があるとは思えない。

そういう意味では、現状分析は無意味だ。

未来を語らなければならない。

常に変化し続けるこの社会に現状分析はどれほど未来の分析に通用するだろうか。

常に変わりゆく未来のその先を見据えて弁論をしなければならない。

 

常に知識も行動力も我々にアドバンテージを持つ政府主体に先回りをしなければならない。

データとかエビデンスとか言ってる場合だろうか?

何かの後追いをしている程暇じゃない。

状況は刻一刻と変化する。

どこにデータがあるというのか。

 

その上で、弁士は霊視をしたその未来を否定しなければならない。その未来が来ることを拒絶し、回避するための策を提示しなければならない。

予想された未来が受け入れられるものであれば、わざわざ弁論などしなくてもよい。

予想された未来と弁士が実現させたい未来との差異を埋める何かが解決策だ。

 

ただ、問題は、この解決策は明らかに正しいものでは決してない。

弁士の思い込みによって立脚されなければならない。

この思い込みこそが、私の考える聴衆が期待する「新しさ」の本質であり、源流である。

何か外部に支えられた確からしいものであってはならない。

 

だから、聴衆は野次を飛ばさなければならない。

揚げ足取りになってでも、時に非倫理的になってでも、自分の立場とは異なる立場からでも。

野次を飛ばし続けなければならない。

その野次こそが弁論の確からしさの唯一の支えとなるのだから。

 

 

 

弁士は、予測した未来を否定して、望む未来を叶える為に、その道筋を示す者である。

聴衆はその道筋が幻ではないかと常に疑い続けなければならない。

だから野次を飛ばす、質疑する。誤った弁論に説得されないように。隣の奴がほだされないように。

 

これから来る新入生の弁士と聴衆たちに期待する。