変なやつであることへの恐怖

先日の弁論大会、五月祭記念弁論大会で、審査員はこのように評した。

 

弁士も、聴衆でさえ、皆スーツを着ている。昔はこうでなかった。皆と同じであろうとしているのではないか。社会を変えるのは皆と異なる者である。

 

概ね同意するところである。しかし、社会を変えるのは我々異常者ではない。少なくとも平時においては異常者に社会を変える力などないのである。社会を変えるのは常に権力者である。その権力の在り方はそれぞれとしても、何か社会に行使する力を持つ者にしか社会を変えることはできない。

だからこそ我々は弁論を行う。演壇に立つ。聴衆にのぞむ。権力ある者を説得し、考えを改めさせ、そうして社会が変わらんことを、と。

私は服装で減点を受けたことがあった。無論、服装は実のところ関係なく、その審査員のある種馬鹿にした振る舞いを馬鹿にし返したことで機嫌を損ねたのかもしれない。権力者の機嫌を損ねるのは公共の福祉に関わる。説得の可否に関わるのである。

だから、スーツを着ろと言われればスーツを着なければならないし、スーツを脱げと言われれば、また別の服装にならなければならない。

この在り方は望ましくないとは理解しつつも、されど、力なき者にとって選択しない訳にはいかない。

だからこそ、女を出せと言われれば、女を出さねばならないのである。

 

私は、変なやつだという評価が恐ろしくてならない。時としてそれは数ある中から選ばれる理由にもなりうるが、同時に門前払いの理由になりうる。

 

○○ワールドと評価されるのは一見して独自の価値観を評価されるようにも見えるが、その実、世界を分ち、結界を張り、対話を拒絶しているに過ぎないのである。

対話せんとする時に最も陥りたくない状況である。