花井杯の準優勝した弁論詰めで作った考察

冤罪についての弁論だったが、最初は痴漢冤罪についての弁論だった。その時、「痴漢冤罪を解決したところで痴漢は無くならないし、痴漢被害者は救われない。」といった意見があった。知ったこっちゃないとは思うが、痴漢冤罪を無くす(=正当に捜査をしていく)ことで痴漢自体がなくなり、痴漢被害者も救われるといったロジックが組めたので晒しておく。

 

「痴漢被害者」は3通りに大別できる。「実際に被害を受けてその犯人を捕まえることが出来たもの(以下「可捕被害者」)」、「実際に被害を受けたがその犯人ではない者を捕まえてしまったもの(以下「不捕被害者」)」、「示談金目的等で被害を受けていないのに人を捕まえたもの(以下「痴漢詐欺師」)」の3通りである。

 「痴漢加害者」は3通りに大別できる。「本当に痴漢をして捕まった者(以下「可捕加害者」)」「本当は痴漢をしたが捕まらなかった者(以下不捕加害者)」「痴漢をしていないにも関わらず捕まった者(以下「痴漢冤罪者」)」の3通りである。

 

 今回の弁論では、メインとなる救済者は「痴漢冤罪者」である。

 

 場合分けをして、「現状」と「本弁論により変わった社会(以下「理想」)」を、主に結果捕まった者が「有罪」か「無罪」かになったかについて考える。

 

 1、「可捕被害者」=「可捕加害者」

「現状」では、実際と同様に「有罪」となる。

「理想」では、証拠の有無によって「有罪」か「無罪」かに分かれる。

 2、「不捕被害者」=「痴漢冤罪者」≠「不捕加害者」

「現状」では、「痴漢冤罪者」は「有罪」に、「不捕加害者」は「無罪」となる。

「理想」では、「痴漢冤罪者」は「無罪」に、「不捕加害者」の存在が明らかになる。

 3、「痴漢詐欺師」=「痴漢冤罪者」

「現状」では、「痴漢冤罪者」は(実質)「有罪」になる。

「理想」では、「痴漢冤罪者」は「無罪」になる。

 

 2、3においては「理想」になったことで不当に損している者はいない(「痴漢詐欺師」のような不当に得していた分がなくなったことは「不当に損している」には該当しない)(「不捕被害者」も「不捕加害者」を有罪に出来ない以上損も得もしていない)

 1においても同様に「不当に」損している者がいないが、証拠不十分なために無罪になることを看過できない人はいるだろう(勿論某国のような有罪推定によって検挙率100%を実現したいなら、誤って検挙された者の数を考えて実現すればいいし、いくらでも間違いを許容できるなら国民を全員検挙すればよい)。

 

 ここで1の正当化の為に新しい考えを導入する。

 ”「現状」の法制度によって真偽を問わず「正捕加害者」を有罪にしてしまうのは「正捕被害者」に罪悪感を覚えさせてしまう”という考えである。「不当な捜査で有罪にしてしまったが、ひょっとすると彼は本当の犯人ではないかもしれない」という疑念を覚えさせることは、精神的に「正捕被害者」を”加害者”にしてしまう。これは「正捕被害者」にとって損である。また、「理想」にすれば解決するといえる。

 

 また、「現状」を「理想」にすることは「痴漢被害者」の行動に変化をもたらす。

 まず、「痴漢詐欺師」は減る。「痴漢冤罪者」が「無罪」なるなら示談せずに裁判に持ち込む可能性が高いからだ。勿論、逮捕された時点での風評被害や、名誉棄損で訴える旨味のなさからしてなくなることはないだろうが。

 次に、「不捕被害者」「正捕被害者」の現行犯逮捕件数は増える。これらは「実際に名乗り上げた」「実際に名乗り上げることは出来なかった」の2通り考えられる。「現状」、後者が1:9の割合で多いというデータがあるらしい(要出典)。「現状」では「現行犯逮捕」イコール「有罪」となり、誤認逮捕が無実の者の命取りになり得る。すると「間違ったらどうしよう」と考え躊躇してしまうことは十分に考えられる。また、逮捕した時点でほぼ「有罪」であるから「痴漢加害者」は所謂「無敵の人」となり、行動が読めず、恐怖の対象足りえる。痴漢してきた人が今度は暴力(殴る蹴る)に出ることは想像に難くないだろう(実際線路に飛び降りるのも「無敵の人」故にだろう)。このような「現状」が「理想」に変わることで名乗り出ることも難しくなくなっていくだろう(勿論他に乗り越えるべき障壁があるだろうことは知っているが、少しでも減るなら十分だろう)。

 

 このように「正不捕被害者」が名乗り上げる割合が増えていけば、仮に「付着物検査」の検出率が一割強程度であったとしても、「正捕加害者」の「有罪」割合は、増えていくだろう。

 「有罪」の危険性が高まれば、実際に痴漢をする人は少なくなっていくだろう。痴漢の隠れ蓑である「痴漢冤罪者」を減らしていくことで安心できる車内は実現できるのではないだろうか。

pythonで作ったオセロのバグがとれたので紹介を

gistc271b1ad2371d767293f8196490f458e

ちゃんと解説出来てなかったし、バグがあったので出直してきたよ。

丁寧に説明していこう

まず1行目。これはutf-8っていう文字コードで書かれてるよっていう宣言だ。このおかげで文字化けが起きないで済む。(文字化けが起きると読めないどころか動かない)

2行目。意味ない行。ファイル名書いとくメモ。これもだけど#以降はpythonは読まない。一行目はpythonは読む。詳しくは1行目をコピペしてggると分かった気になれる。

 

4.5行目。外部にあるパッケージとかいうやつに使いたい機能があるんで呼び出す行。pythonに標準でついてるやつだけど、ネットから拾ってきてもいいし、自分で作ったやつを呼び出してもいい。

 

7行目からmain()関数とかいう物を定義している。一番下の最後の2行はその定義したmain()関数を読み込むっていう行なんだけど、ぶっちゃけこんな面倒なことはしないでmain()の中だけ書いても動く。ただ、もっとでかい物を書くとき、この書き方じゃないと死ぬことがあるからこうしてる。こうするとmain()の他にも関数を定義して綺麗に出来たりする。

 

次の行から本番だ。

 

8行目。これは入力する主体がコンピュータが画面の前の君かを決める為に作った変数だ。実はオセロは2人用ゲームなんだが、プレイヤーを二人見つけるのは大変なので、片方(若しくは両方)をコンピュータに任せることが出来る。86行目で使ってる。

input()っていうのは()の中の物を画面に表示させて、プレイヤーが入力した文字列を返す関数だ。これをint()という文字列とかを整数に変える関数を通して変数に入れている。

 

9行目。while True: ってのは要は無条件で繰り返せ、っていう命令文だ。breakとかして脱出しないと永遠にループする。

 

10行目から21行目は変数を定義している。utf-8っていうのは、ローマ字と日本語文字を区別しない。だから日本語の変数なんかを置いてしまうこともできる。分かりやすいだろ?(入力は最高に面倒だが)

 

盤面という変数はリスト変数、それも2次元リストといってリストを格納しているリストだ。変数は普通は一つのものしか入れられないがリスト変数は順番に沢山のものを入れられる。しかも中身を前から何番目といった風に指定して引っ張ってくることも可能だ。一番最初の数字は盤面[0][0]という風にだ(0から始まる)。

この盤面という変数には0.1.-1.(このあと登場する)2の4種類しか入らないことになっている。それぞれの数字の意味を説明しよう。0、これは何も駒が置かれていないという意味。1は黒い駒が置かれていることを意味し、18行目のターンという変数も同様である。-1は白い駒が置かれていることを意味している。なんで2ではなく-1なのかというと*-1でひっくり返す処理を意味することが出来るからだ。それ以上の理由はない。

2は置くことのできるマスを意味している。0の中で2に合致する奴を2にする処理が26行目から始まる。

この盤面という変数、やけにかさばる表記をしているが、これは単に見たままの分かりやすさを重視しているからである。改行しているのもそのためである。

実はよりスマートに2行で書く方法もあり、それだと盤面の大きさも変えることができるのだが、今回は採用を見送った。

 

ターンという変数はそのとき、白のターンなのか黒のターンなのかを示す為の変数だ。黒なら1、白なら-1なのは盤面と同じである。

 

マスという変数は、盤面がそのままだと意味が分かりにくいので、分かりやすいように文字に置き換えるための変数だ。〇と-1、×と0、●と1、☆と2が関連してるのは分かるだろう。しかし、リストは0から始まるので、この変数を使うときは+1して使うことになっている。

この’’でくくられたものが文字列となってそのまま出てくるようになる。’’が無いと変数として扱われてしまう

 

勝利という変数は、白も黒も置けなくなったときに試合終了して勝利判定をするための変数である。26行目の置けるかという変数と連動しているのだが、一つの変数でもいいような気がするが、ちょっとこんがらがってしまったので、このままにしている。勝利が2になったら試合終了になる。

 

符号という変数は周囲八方向をいみする変数である。オセロのひっくり返す処理のときに、これを足したり引いたりして使う。

 

23行目からこのオセロの核心で、ここを何度も繰り返すことでゲームが進んでいくのだが、結構長くなってしまったので一旦区切ろうと思う。

 

人間に真の対話は出来るのか

(575)

 

皆さんは本当の○○みたいな物について語り出す人に気をつけておいた方がいいでしょう。「それは本当の○○ではないよ」論拠なく言うそれは、なんだが説得力のあるような気がして惹かれてしまいますが、何も言っていません。

 

今回はこの話をするのは、人工知能が台頭しつつあり、人間の知能とは何かについて焦点が当てられたこと、そして、グローバリゼーションが進み、異質な人間と対話しなければならないことが増えつつあることによって着想したからであります。

 

人間に真の対話というのは出来るのでしょうか。真の理解としてもいいでしょう。人工知能には出来ない、「未知の概念を概念としてそのまま理解する」ことは人間には出来るのでしょうか。

 

人間の理解は「これが○○である」といった実物と「名前」を結びつけることによる理解とそれに基づく予想によって構成されている。(諸説ある)

 

これは結局、人工知能が目指すところないし現状出来ていることに過ぎないのではという疑念がある。

 

実際のところ科学的な話で思考について分析すれば、ニューロンとかいうものが電気信号を出したり受け取ったらする活動が集合してできているというじゃないか。人工知能も同様の仕組みを取り入れている。

 

このような思考形態は、人工知能の発展により、脆弱性が発覚した。

全く新しい概念形態をそのままの形で理解することは不可能なのではないか?

 

恐らくそもそも新しい概念形態をそのまま理解する必要性がないから発展しなかっただけで理論的には可能であるかもしれないし、不可能であるかもしれない。

 

人工知能は基本的に教師を必要とする。人間もまた教師を必要とする。形而上的なものをそのまま理解することはほとんど不可能に近い。必ず例え話などを使い歪んだ状態でしか理解できない。イデアと現象界をそのまま理解することは出来ず、洞窟のイメージを用いて理解しようとする。

 

勿論人間も人工知能も教師データを必要としない場合もある。ルールによって制限された世界であれば教師がいなくとも概念を所得していくことはできる。囲碁の攻略を人間のプレイデータを用いずに、人間より優れた手法でやることは可能になる。が、ルールを理解することは可能だろうか。

 

もし仮に、囲碁をする二人を認識して、その動きから囲碁のルールを理解することが出来たら、それはもう新しい概念形態をそのまま理解することができたと言って良いだろう。出来るのだろうか。出来ると良いなとは思う。

 

人間にも不可能だろう。ルールを口頭で説明されて、初めて理解する。しかしこれは未知の概念を理解したと言えるだろうか。

 

言語の習得はただその音声刺激と物を紐付けして理解したかのように振舞っているだけではないか。

知らないことを理解することは出来ないだろう。出来るのは理解したかのように振る舞うことだけである。

しかしそれでも我々は不自由なく暮らせている。我々が知っていることを切り貼りして新しい概念を理解したきになっている。それで十分であろう。

 

しかし、人工知能には出来ないが我々人間には出来ることは何だろうと問おうとすれば、それ以上のことを求められる。人工知能にも知っていることを切り貼りして新しい概念を得るといったことは可能である。が、そのまま概念を理解することは出来ない。人間に求められることはそれである。しかし人間にもできない。

 

それでいいじゃないかと思う。出来ないことを進化などによって出来るようになるのも不可能ではないだろうがコスパが悪すぎる。我々は理解などしなくとも生きていけるのだから。

 

とはいえ、我々が対話して新しいことを理解しよう、得ようと考えるとそうもいかなくなる。勿論従来のように知ってることを切り貼りして理解したように振る舞うことはできる。それでいいのだろうか。度々留学などして海外で新しい経験を積もうとする人などがいる。彼らはその程度の理解を望まないだろう。しかし、出来ないことは仕方ない。見せかけの知見を増やして帰るほか無いのだ。

 

理解出来ないならば、我々は異なるものと接する必要もないのではないだろうか。

 

いつだって起きれるからこそ寝転がる

先日祖父の葬式を終えました。晩年は非常に辛そうなものでした。楽にしてやれたらいいものを。そう考えていました。とはいえ、死は救済であるなんて思想実際に身内の遺体を見れば吹き飛ぶのではないか。そうも思っていました。

が、そうはならなかった。綺麗に繕われた身体からは黄泉の気配はなく、随分と重荷から解放された穏やかな表情に見えた。勿論我々生者に死の苦しみも死者の感情も分かる訳はないのですが。

寧ろ、死は救済である、といった思想は強まるばかりでした。ある時、祖父が娘、私の母、に向けてこう言ったのを覚えています。「お前の為に頑張っているんだぞ」

確かに彼は頑張って生きていたのでしょう。実際病態は何度も好転していました。私は頑張って生きてきた経験はありませんが、ただ生きて事態が好転するというのはありませんでしょうからその頑張り具合というのは察せられましょう。しかしながら、その頑張りは自分の為ではなかった。残されるものの為に頑張っていた。その頑張りから死によって遂に解放された。これは何も頑張りが実らなかったことを意味しない。逆説的ではあるが、頑張りが実ったからこそ死んだのだ。

誰かの為に頑張るというのは、病床の上でする事だけではない。利他的行動は様々な行為に見られる。しかしながら、病床の上以外での行動は、明らかに社会全体の幸福を向上させるものであると思われる。病床の上での頑張り、それも元の生産的(この表現は問題があるが)な生活に戻れるのは絶望的な状態での頑張りは果たして社会全体の幸福を向上させているか。効用について考える。残されたものが、その生きている間会いに行けることが唯一にして最大の効用であろう。コストについて考える。まず、患者本人は苦痛の連続である。病床は娯楽が皆無に等しい。その上で病気による苦痛が責める。残されたものに対してもコストはかかる。お見舞いの時間的精神的コスト。また入院費もバカにならないだろう。

それでも我々は能動的に死を選ぶことが出来ない。殺人であったり、自殺幇助になったりするからだ。

生かさなければならない。死ぬまでは。それが何を産むわけでないとしても。

他人の弁論のネタバレするのは気が引けてしまう

花井杯(中央大学で主催される弁論大会)にうちの大学から出す弁論のフィードバックしてたら結構自信のある考察が出来たので晒したいんだが、何をしたいのかバレてしまうので11/11にやる花井杯より前にいいって良いものか、、、という花井杯の宣伝

まだ弁論大会に来てない良い子は、、、来るようにしようね!もう来た良い子は、、、来ようね!弁論を作って言いたいことを聴衆に伝えようね!

今後やろうかと思っている弁論のネタ

来年何すっかなあというアレ

1つ、第二外国語は現在必修だが有益ではないように思える。大学はやりたい学問をやれば良いわけだから、原書を読むのに使うわけでもない言語は選択科目にされるべきである。これは新歓時期にやろうかと思う。

2つ、相続制度って貧困の再生産を産んでるし、相続権って根拠なくね?無くそうぜ?これは特に政策を持ち出さずに暗黙に前提とされてきた相続制度を見直すきっかけにするところで止めて価値っぽくしようと思う。やるなら五月杯。

3つ、現状民意が十分に反映されていない選挙制度の新しい形を提案する。パワポが使えてかつ高くなりうる桜門杯でやりたい。

4つ、価値価値したものを大隈杯にぶつけたい。色々考えてたんだが、普通に忘れたので、取り敢えず生きてることって別にそこまで金かける意味なくね?って感じの奴をやろうかと思う。

後は後続の大会見たりして思い付いたらメモろうと思う