紫紺の振り返り

正直去年は言うことが無かった。語るまでもないカスと語るアテがもうない本質だけだった。それどころじゃ無かったのもあるが、そんな感じだった。たくさん言いたいことがあるとだけ書かれたブログの下書きがあったことだけは申し添えておく。

実のところ今年もそうなのだが、語りどころがあったので筆を執った次第である。

本当はもっと早くに書いておきたかったのだが、あれからすぐに床に臥せてしまったのでできなかった。というかその旨を早く伝えるべきだった。体調不良になったもの、してしまったもの、申し訳ありません。

優勝弁論は、複雑なものは複雑なものとして扱おうという極めて本質的であるが故に何も言っていない弁論だった。未来に対する道しるべはなく、ただただ、弁士の諦念だけが漂っていた。森を分け入ったら崖にたどり着いた、といった感じである。己の限界にぶち当たってどうしようもなくなった弁士という意味では同部弁士も同じであるといえる。ただ、こちらは道しるべを打ち立てていることが差異であるか。もちろん、それが弁士としては軸がずいぶんとぶれているようであるが。

私が現役の時、紫紺で弁論弁論をすべきといったのはこのような、弁論の枠組みを飛び越えて、就活であったり卒論であるような別種の言論活動に触れた上で相対的な視点を持ちながら、それでいて自身の限界にも気づいているような、最終学年生による遺言、やりきれなかった思いを共有すべきであると、考えていたからというのがある。審査員長が流れが変わったと言っていたが私はようやく始まった、つまり限界がやっと見えてきたという所感である。ここからは崖に指をひっかけるような、辛く、険しく、つまらない弁論が続くことだろう。だが、それがいいのだ。

 

複雑なものを複雑に扱うべきだというのは、現代にいたるまで主力だった分割統治法に対するアンチテーゼという意味合いがある。ある問題があるとき、それを小さな問題に分割し、その小さな問題を一つずつ解決していく。もし解決しきれないのであれば、さらに細かく分割する。クソデカ四角錐をいきなり作るのはむつかしくとも、デカいレンガを1つずつ積むことはできる。だが、分割方法を間違えれば、ただ無意味に複雑なものになる。

子供を預けることができる施設である保育園とこれまた同様に子供を預けることができる幼稚園のその管轄は異なる。この例事態はこども庁によって解決させようとする動きこそあれ、このような意味の分からないところでの分割というのは後を絶たない。いわゆる縦割り行政というやつだが、それでも割らなければおよそ認識可能な複雑さに抑えることはできないのである。

実際同大会では、知る自由にたいして、二つの障害を例示し、弁論内ではその片方を挙げることで奇麗に収めた弁士がいた。(聴衆にとってはそれでも大きすぎて更なる分割の必要はあったようであるが。)かなり良い分割統治であったといえる。しかしながら、その一つの解決策は、もう一つの問題を助長させてしまうという課題があった。もちろんポケモンの性格は無補正でない方がいいのと同じように、最終的に問題を解決させるには多少アンバランスな政策を打ち出す必要性があることがあるのは然りであるから、評価はしきれないのが実情である。つまるところ、この世の全ての問題について解決策を提示し、問題*解決策通りのそれぞれの関係について悪影響が出ないか検討する必要がある。ようするに複雑なものを封雑に考える必要が出てくるということである。

あまりに複雑な社会であるから、分割して統治する必要が出て、それで一定の成果は出たものの、分割されたもの同士で想定外の干渉を引き起こしたり、無駄な分割が解決を妨げることがあるから、一度巨視的に見渡す=複雑に理解する必要がある。というループに陥ることになる。解決策は頑張るしかない。その通りだ。

だが、実際のところ、パズルが目の前にあったらとりあえずおいてみて考えるというやり方が有効であるように、おいては直しを繰り返すことで、そこまで複雑に考えなくとも解決に近づく可能性もある。現実社会は間違った場所にはめられたパズルの集合のようなものである。一旦取り壊して整理することで複雑さを低減させることができる。

しかし、現実社会は置いて外してを繰り返していいようなものでもない。

そして、そのような試行ができるような場こそが、弁論大会であるべきではないかなどと思っている。弁論は社会変革には、ずいぶんとかけ離れた場所にある、という指摘は的を射ているように思われる。私たちはお手製の銃を作って元総理を射殺したり、フェスをデスにすることだってできるのだ。社会人になってから思うことは、社会はずいぶんと容易に変えることができる。学生ですら、社会に変革をもたらすのは難しいができないこともないし、ただ影響を及ぼすだけなら意外といけるものだ。

だが、やってみて戻しての繰り返しはイーロン・マスクのふるまいにツイッター(Xともいう)民が辟易としていることからもよくわかることだ。ただの1サービスに過ぎないものがこうならば、政府主体がこのようなふるまいをすれば辟易では済まないだろう。

実際、社会を変革しないでも成立するようなパズルの置いてみる、は学生風情が10分程度語る、あたりではなかろうかと思う。

かなり厳しいきはするが、ラバーダッキングという方法が一つの解決策としてあるように、これだけでも意外とデバッグの役割は持っているものだ。

そして、その語りを聞いて、なんとなく心の隅に置いて日常に戻る。そしてそれが正しい置き方であったのかなんとはなしに考える。もしかしたら別の置き方があるかもしれないと思いつく。そういう超間接的な総当たりでしか解けない問題があるのではないか、と思うのである。

ようするに、弁士と聴衆らは、弁論大会を通じて一つの脳を構成するのである。これが複雑なものに複雑なまま扱うための私なりの解である。