災害甚大化は寧ろ「コンパクトシティ化」出来ていたからだ

コンパクトシティ化を誤解しているという旨の言及を一番始めに観測してからのこの記事、であるから本来は定義から言及するべきなのだろうが、誰がどう誤解しているのかを知らないので措くが、

観点としては、コンパクトシティの対となる概念はクソデカシティでもポツンと一軒家でもなく、漫然と家々や施設が点在する町並みになる。地図に均等に各要素を配置して行くとそのような街並みになる。対してコンパクトシティは、地図にランダムに各要素を配置したときに現れる、要素が密集した地域が各所に現れる状態がこれに当たる。町の中心たる箇所が点在している。周囲の独立した点を町の中心に寄せ、さらにこの町の中心間に道を引くとコンパクトシティ的な配置になる。

 

このようなコンパクトシティ構想が重要になってくるのはまとまった平地が十分あるが、構成員の数からしてそれらを十分活用できない時である。平地をフル活用しても足りない場合はコンパクトシティになれない。逆に平地が足りない時もコンパクトシティ構想は役に立たない。

 

既にコンパクトシティ的だからだ。基本的に斜面より平地の方が生活するにあたっては楽であるから、自然と平地に集まる。その平地にできた町の中心を道で結ぶ。この状態はまさにコンパクトシティが目指している状態に他ならない。

コンパクトシティは町と町の間には何もない空間が生まれる。現実的にはある程度空間が必要な畑がそれを埋めるのだろうが、理念的には何もない空間である。道ではない何もない空間をアメリカの荒野のように走ることが出来るなら、そう問題でもないが普通道以外の所を走るものではないし、道と同様に不便なく走行可能ならもはやそれも道なので考慮しない。

今回のような道の断絶による障害について考えると、概念としてのコンパクトシティ、町の中心がただ道で結ばれた状態は類似の障害に弱いと言える。

政策としてコンパクトシティ化するときは当然迂回路も沢山ある状態から始めるから、最初は問題が起きないが、コンパクト空間に要素を収めれば、外側の多様性は徐々に失われ、脆弱なネットワークに変貌するだろう