フェミニズムに於ける暴力の定義を得たので

先日紹介された「女はポルノを読む」を今更ながら読んでいたところ、ずっとモヤモヤしていたフェミニストの言う「暴力」とはなんなのか、暴力が物理的に殴る蹴るに限らないのは分かるが曖昧すぎてなんとも言えないと思っていたのですが、それが明文化されていたので記録を兼ねて紹介しようかと思います。

 

p29 "「暴力」という用語には注意が必要だ。フェミニズムの文脈で、この言葉は必ずしも身体に向けられた直接的な行為だけを指すのではない。例えば内藤和美は、暴力を「個人どうしの関係の中で振るわれる暴力から、産業・習俗・慣行など社会的・経済的制度と化した暴力、政治的手段として組織的に行われるそれまで、公的あるいは私的な生活の場で振るわれる、身体的・心理的・性的な様々な形」をとる、強い側から弱い側への強制力の行使と位置付け、「女性に対する暴力」がジェンダー差別の構造の一つであることを論じている。"

 

まだ曖昧故にこれを解釈していく行程が必要そうですが、まあいいでしょう。とりあえず議論の席につけた。

こうしてみると非常に広い範囲を扱う概念のようです。ここで不安点が2つ。

1つ、範囲が広すぎると議論が散漫になってしまうのでは?

2つ、広すぎる概念で非難すると自らに返ってしまうのでは?

 

1つ目。確かに世界の真理のような広く全てを内包する概念で語らねばならない問題はあります。が、何を問題視しているのかが不明確になり、議論があらぬ方向に進んでしまう可能性があります。例えば、アイドルになりたい人がいるとします。その過程で枕営業を強いられることは問題でしょう。しかし、これと同じレベルでスカート短すぎるんじゃない?などと上司から言われることが問題であるのでしょうか?同様に暴力とみなされるとすれば話はこじれるように思われます。勿論本当に同程度に問題であるならばそのように進めなければなりませんが。

 

2つ目。ブーメランでは?と言う話。強すぎる抗がん剤は健常な細胞まで痛めてしまいます。セクハラは暴力でありますが、それはセクハラですよと、政治的に誰かの行為に強制力を与えたとき、それもまた暴力になってしまうのでは?という不安があります。この不安が的中したとき、ただひたすらに暴力により権利を奪い合う世界になってしまいます。僕は一向に構いませんが。

 

また読了したときにこの本について紹介し直そうかと思います。

 

 

女はポルノを読む―女性の性欲とフェミニズム (青弓社ライブラリー)

女はポルノを読む―女性の性欲とフェミニズム (青弓社ライブラリー)

 

 

良い弁論って何だろうか

良いとは似つかわしいとかいう意味で弁論とは弁論大会でなされる言論活動と限定しておく。

入賞する弁論だけが似つかわしいという訳ではないなと思うので、僕の思う最低限の良い弁論の条件をあげてみる

1.言いたいことが伝わる

2.1によって聴いたものの心が揺さぶられる

 

これさえ伝われば良いしそうでなければ例え優勝しても良くはないと考えて弁論を考えていこうと思った

新歓用に弁論を作っておく

テーマは「2外選択化」

目標は「このようになりたい、この部に入りたい」と思わせること。

聴衆特性として、弁論界がいなく、入るサークルを決めようとする新入生が大半。

以上から、弁論に求められるのは華麗さといったものが要求されるだろう。

とりあえず導入は、聴衆特性を考慮して、入学祝福→想定される大学像(自由!)→それを邪魔する2外の存在、といった風にしようかと思う。

 

以下のような物にしようと思う。

 

#祝福の言葉

まずは皆さん、大学入学おめでとう。我々は皆さんを歓迎する。

#自由ではない高校

これまで辛く苦しい受験時代、受験科目だけを勉強して過ごしてきただろう。推薦組であっても高校では決められた教科だけを勉強する毎日であっただろう。

#自由な大学

しかし、大学は自由だ。受けたい講義を取ることが出来る。したいなら学部が違う講義でも受けることが出来る。講義のない時間に好きなことが出来る。サークル活動に打ち込んでもいい。バイトに勤しんでもいいだろう。何をしたっていい。

#自由の強調と次への伏線

高校にはあった不純異性交遊禁止だとか髪染め禁止といった不条理な決まりだってない。大学では好きな格好で好きな人と好きなことが出来る。……

 

#自由の否定とその原因

(大きな間)

としたら、どれほど良かっただろうか。我々は自由に好きなことをしようとした時、それを阻む壁がある。君がしたいことでもなければ、学問的にも人生にも役に立たないにも関わらず、強制されてしまう講義がある。それを、君たちはもう知ってるだろう。君たちはここに入学すると決めた後、最初の選択をしたはずだ。そう!第二外国語である。

 

今回君たちに訴えたいことは、必修科目の第二外国語を選択科目にすることである。

 

以上導入案。

 

500字を超えた導入であるが、このぐらいの方がいいんじゃないかなと、思っている。

というのも、ついこないだ第二外国語を選んだ新入生諸君は第二外国語の不要さを感づいているだろうし、弁論界の要求する明瞭な論理構造より共感の方が強いと思われる。論ずる問題は国レベルではなく学校単位での問題(解決策)であるから論点もそこまで多くはないだろうからこのぐらい取っていいと思う。書いててそうも言ってられなくなったら考え直そうと思う。

 

python でオセロaiを作ろうとした

時代は人間の戦略通さないやり方だよな!

 

そう思ってオセロai計画を始動した訳です。

計画の中身は以下の通り

乱数を用いてどんどん試合を進めながらその時の盤面と置いたマスなどを記録しておく

試合が終わったらその試合結果に応じて選んで来たマスをその時の盤面ごとに評価していく

 

最終的に勝ちやすいマスってのが分かるっていう寸法だ

だが、この場合の数がとんでもなく多い。

ざっと10^50ぐらいはあるようだ。

普通にやってもたどり着かないどころかメモリ不足で死ぬのでは?

 

解決策としてデータ全体を一つのファイルにして全部同時に読み込んでしまうのはしないで、ファイル名を盤面変数で定めて中身を置けるマスの評価の数字だけ入れようということにした。

 

これらを実装するために、その時置けるマスのリスト変数と置いたマスの変数、リストのリストで管理してた変数から[. ]を取っ払い-1を-に取り替えることで出来た64字のファイル名の変数を全ターン毎にまとめたリスト変数を用意した。

 

試合終了したら以下の処理をする

ファイル名+.txtを開く

開けなかったら置けるマスリストの長さ分だけ0 を並べたものを作る

数字と空白で出来たデータをリストにする

置いたマスが置けるマスリストの何番目にあるか調べて、その数字を1足したりする(正確にはターン×試合結果(それぞれ白黒を意味する1と-1のどちらかが入っているけど意味ない気がする))

出来たものをまた文字列に戻してファイル名+.txtに書き込む

というのを毎ターン分やる

 

ってのをやってたら問題が発生した。hddの通信速度に引っかかってクソ遅くなった

ssdにするのも手だなとは思うけど一つのファイルにして辞書変数にするのも良いんだろうか?

 

一晩放置したら10mb以上100万ファイル程のデータベースが出来上がっていたが、中身を確認すると学習された感じでは全然無かったという話

 

ソース

gist256ef9846dba3b302bca02a58416d9b3

拓総第二弁士をきいてて考えたこと

お疲れさまです。明大雄弁の321が勝手ながら自大弁士について思うところがあるので述べようと思います。演練や本人その他部員と話したことも考慮に入れているので弁論そのものとズレることがあります。

 

テーマは「英語帝国主義に於ける、英語ネイティブと非ネイティブの言語習得コストの不平等の是正」でした。

 

非ネイティブはネイティブと比べて英語習得コストが余計にかかってしまいます。この分だけ、非ネイティブはネイティブより可処分所得が少ないと言えます。同時に、ネイティブはこの多めに残った可処分所得を他の部門に回すことが出来ます。この差は小さいように見えるかもしれませんが、指数関数的に広がってしまうのです。

 

これは個人の問題ではありません。国家間の問題なのです。

従って社会福祉といった方法で解決することは出来ません。無論国際連合がやるというなら別ですが。

 

現状英語とその話者が言語戦争とも呼べる争いに勝利し、英語が半ば世界公用語となっているのは事実でございます。(勿論、その他西洋言語や中国語もそれなりの地位にあるのはその通りですが、それでも英語にはやはり及ばないのではと感じます。海外と話をしようと思ったならばまずは英語を、となるのではないでしょうか。)

 

英語がここまで成長した理由として、アメリカが世界大戦に勝利し、経済的にも優位に立ったから、というのもあるでしょうが、やはり英語の成り立ちからして他言語のいいとこ取りをしたために、西洋言語の中庸的立場でかつ不要な文法が捨て去られたために習得が容易であるからというのが大きいのではないでしょうか。

 

となると、他の国が戦争に勝って他の言語が国際語的立場にたっても良かったのかというとそうではないことが分かります。例えば日本が勝って日本語が国際語になりえたかというとそうではないでしょう。文法が激しすぎて完全に習得出来ている人は日本人でも少ないように感じられます。

 

となると国際語を英語以外の言語にすることで不平等を是正しようとするのは、不可能であろうと言えます。

たしかに、誰も母語としない言語を国際語とすることで、習得コストに於ける不平等は是正されます。が、これは社会全体の習得コストが大きくなっているだけであります。非ネイティブは新たな言語を習得する点ではコストは変わらず、ネイティブは新たに言語を習得するのでコストがかかるだけであります。皆貧乏になって平等を実現するのは社会主義の悪いところでありましょう。

 

勿論、母語話者の居ない言語を公用語にするのは大きな利点があります。第一に母語話者にお伺いをたてる必要がない。第二に文法が変化しない。第三に歴史的制約を持たないので合理的な言語体系を組むことができる。

ひとつ、英語教育では「ネイティブが使ってるから良い/悪い」という文言が多く使われました。「確かに文法的には正しいがネイティブはそんな使い方はしない。確かに文法的には間違っているがネイティブはそう表現する。」

My name isとI’m 問題などそうでしょう。世界言語ならば文法第一にすべきなのです。

ふたつ、これは上のネイティブ第一主義を取らないというのと大きく関わっています。母語であれば、伝わるから省略する、だとかここを強調したいから語順を変えるといったことがよく起こります。そのような不規則表現をさせなければ文法はそう変化しません。

みっつ、これも上と被るのですが、歴史的背景は例外を大きく発生させます。不規則変化動詞であったり、読まない文字であったりはこれらの歴史的背景による例外てあると言えましょう。歴史的背景を持たなければ例外のない簡潔な文法を持つことができる。

 

これらのメリットを持つ言語を実現せんとして作られたのは、かの有名なエスペラントであります。言語としては平易であり、英語より国際語然としてるので推しても良いでしょう。

 

しかしながら、流行っていない。日本が学んだところで他国に学ばせなければ国際語たり得ない。全体としてのコストが下がり、英語母語者に学ばせるコストを考えても問題ないとしても、彼らは新たな言語を学ぶのを選択しないでしょう。

 

日本が、他国の教育制度に干渉し、習得言語を変えさせることなく、不平等を解消する方法は何か。

 

それこそがジャングリッシュであります。

我々は発音を習得しない。何種類もあるアという発音の違いを学ばない。英単語はカナカナで表せるレベルまでしか学ばない。

そして、ネイティブにそのカタカナ発音を理解させる。理解するコストを強制的に支払わせることで不平等を解消していく。

 

しかし、これだけでは結局英語を学ぶのだから不平等は完全に解消してないではないか。という反論があろう(実際あった)。だから理論武装した。

 

英語その他非母語を学ぶことは、その言語を使う実用的価値以外にも価値がある。非母語の文法を学ぶことで母語の文法をより客観的に見直すことができ、深い理解ができる。非母語の単語を学ぶことで、ソシュールの言う所の分節について認識を深めることが出来る。ただ「あし」と見ていたものを「leg」と「foot」と分けて理解することができるように。

 

このように考えれば、英語習得コストのいくらかは母語の理解を深めるというリターンが返っているからコストとして見なくても良いと言える。

 

しかしながら発音は別である。ネイティブの発音を覚えたところで、日本語の発音理解は深まらない。アクセント辞典でも読んだ方が合理的である。そもそも口の構造上の問題があり習得不可能な場合がある。発音習得コストはなんら副次的利益のない純粋なコストである。

これをとりはらおうと言っているのだ。

発音習得コストが浮いた分他の学習に費やすことが出来る。

 

まとめ

 

非ネイティブとネイティブの間には英語習得コストに於いて不平等がある。

 

この不平等は国を跨っている。

 

日本の出来る政策の限界や、功利主義的な視点から、国際語を非英語にすることは難しい。

 

英語習得には発音教育とそれ以外と分けられる。前者は副次的利益はなく、後者はある。

 

発音教育をやめ、カタカナ英語を理解させることでネイティブに支払わせることで不平等を解決することが出来る。

 

以上であります。

続・pythonでオセロ作ったから解説

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続きを話そうとしている間に書き換えが起きた。

とりあえず説明がついたら改めて解説しようと思う

なのでほんへで何をしてるかを概説したい。

大きく分けて、

「駒を置けるマスに印をつける」

「盤面を表示する」

「両者が駒を置けないとき試合終了処理をする」

「駒を置くマスを決定する」

「駒をひっくり返す」

という処理で出来ている。ね?簡単でしょ?

 

なんか説明してたらそんなに難しいことしてない気がしてきた…分かりきったことを説明されるのアホらしいのでは?もっと説明が必要なら反応が欲しい。

其々の 不快を基準に していいの?

「受けた人が○○だとおもったらそれは○○なんだよ」

これ、合理的な定義だと思うか?違うよな?

受けた人がどう思ってるかなんて分からないし、その人が過敏なだけかもしれない。定義が面倒だからってこんな定義付けしていい訳ないよね?

 

でも、こういう定義を採用しているものが、僕が知ってるだけでも二つある。「いじめ」と「セクハラ」である。

 

僕が小学生だった頃、あるクラスメイトがいじめを告発した。

それは休み時間の話だった。僕たちはクラスメイトでドッヂボールをしていた。そのクラスメイトも参加していた。ドッヂボールというのは、ボールを投げあって相手の頭以外のどこかに当てて退場させ、最終的に場内に多く残ってた方が勝ちといったゲームである。僕らはそういうルールを合意して遊んでいた。そのつもりだった。

投げられたボールが誰かに当たる。それはそのクラスメイトも例外ではない。例のごとくそのクラスメイトは当てられた。普通の光景だと思っていた。しかしそのクラスメイトは泣き出した。泣きながら校舎へ戻っていった。

彼女はそれを「いじめ」だと主張した。確かに、定義上はそうである。我々の中で合意が取れていると思っていても、彼女はそうではなかった。受けた人がいじめだとおもったらそれはいじめなんだ。だが、そのように主張された教師も困惑しただろう。ドッヂボールでボールが当たったからいじめだという。それは経験のないことではなかろうか。

 

この定義には欠陥がある。

勿論いじめについて、全ての問題を解決できるかというとそうではないだろう。いじめという言葉に包まれた犯罪行為は法律で処罰しうるならばそれに基づいて学級裁判でもすればよい。が、例えば無視といったものについては法律で処罰されようがないし、定義付けも本人の不快感以外に私もアイデアはない。

だが、「セクハラ」は解決しうるだろう。

 

解決策を探るため「セクハラ」と近い位置にある「パワハラ」について考えてみたい。

 

パワハラとは「置かれている権力構造を利用して、なんらかの行為(受動的行為含む)を強制すること」と置くことができる。

パワハラはセクハラと同様に法的な意味合いというのは無い。が、その語の存在理由として、他の法的な制度ではどうしても漏らしてしまう非倫理的行為を罰したい為に作られたという側面がある。ここでは「権力によって自発的に行なっているかのように見せかけられた強制された行為」を問題視しているのだろうと考えることができる。

昇格の取り消しや降格ないしはクビといった権力的暴力をチラつかせることで契約外の行為でも強制することが出来てしまうことについて、パワハラは問題視している。

 

セクハラは大きく分けて二類形あるらしい。「対価型」と「環境型」と分けられる(出典Wikipedia)。前者はパワハラに通じている。権力的暴力によって行為を強制している。Wikipediaには性的なネタへの強制参加は環境型に位置付けられているが、これも対価型として良いだろう。やらなければ人事的に不利になってしまう可能性がある。

私や世間が問題視しているのは後者である。これは本当にセクハラたり得るのかと。前者は物的不利益が想定されるのに対し、後者は心的不利益を想定している。

 

性的な言動により環境を悪化させるというが、基準が不明である。

 

権力的圧力がないならばそれは地雷だからやめてくれと言えば良いだろう。「何もないのにセクハラだといって世間的圧力を加えてやめさせることこそセクハラだ」となってしまい不毛な争いになるのを食い止める為にもう少し基準を明確にすることによって、議論を建設的にして、解決可能性を高めることこそ、被害者のためになるのではないでしょうか。