相続制度廃止論をやろうとした抑の動機の話

最初から説得が目的ではなかった

あらゆる弁士は大概、自分の論は絶対であるという前提で挑む筈であり、その絶対的な論を無知蒙昧な聴衆に授けんとする。

誰が論破されることを前提に演壇に立つだろうか?

私だ。私は相続制度は廃止出来ないことを自らが論破されることで示そうとしていたのだ。(結果は論が伝わらずに終了した)

論破されることで逆説的に示したかった理念

相続制度廃止論は、自由平等(特に平等)の達成という理念の下、主張される論だが、当弁士はこの自由平等という題目を懐疑的に見ている。我々には高過ぎる買い物ではないか、と。

弁士は自由平等の達成に不可欠な相続制度廃止論が却下されることにより、結果的に自由平等を手放してより効率的な社会を目指させようとしていたのだ。

自業自得と宣う民衆

自己責任論が流行している。自己責任論は、自由平等が達成されている状況でなければ通用しない。

自己責任論を好んで使う者は、自らの選択が外部から(比較的)独立していて、その選択肢によってのみその処遇が決定されること(自由平等)を前提としている。

しかし、現状はそうではない。彼等強者は、どうしようもなくそうあらざるを得なかった弱者に対して負担を強いているのだ。

 

別に弁士は正義心にかられ、それを正さんとしたい訳ではない。ただ、愚かにもその恵まれた状況に気付かず、世界を自由平等と勘違いする者が気に食わない、ただそれだけのことである。

 

自由平等は何者かに与えられた物ではなく、生まれながらに存在するものである。日本憲法にもそのようなことが書かれている。

しかしながら、存在するものを実現させる為には、制度的な何かが必要であり、それは決して無料なものではない。

高過ぎるからといって手放すのも手である。しかしながらそれであっても、この世界は自由平等ではないことを前提として、運営していかねばならないだろう。それを民衆が認められるかは疑問である