Twitter社によるトランプ氏のアカウント凍結の何に切れていたのか

私の興味の範疇である、表現の自由がどこまで守られるべきでどこからはそうでないのかという議論の途中にある話だと思うので、ここに残しておきます。

 

そもそも、私はどのように表現の自由と向き合っているのかについて記しておきます。

 

まず、自分のスタンスとしては、全ての人は、あらゆる表現を、その表現の如何によってのみで検閲されることは例外なくあってはならないという立場です。

 

「表現の如何によって」というのは例えば性行為の接合部が見えているかどうか、であったり、芸術性があるかどうか、といった表現の中身に踏み込んで判断をしているかどうか、ということです。つまり私のスタンスとしては、表現の中身を見ずに検閲を行うことはアリということになります。

 

検閲されない状況とは何か、という話ですが、「ある者が当該の表現物を、凡ゆる人の目に触れる可能性を有する状態に、また、他の者が当該表現物を見るかどうか選択できる状態」、と私は考えています。

つまり、私が絵を描いたとして、その絵を見せようと思ったら、全ての人が事前にその絵がどのような物なのかを知り、その絵を見るかどうか選択出来る状態にし、その絵を見ようと思った人が見ることが出来る様に出来れば検閲されていない、と考えています。要するにゾーニングがなされていたとしても、ゾーニングされた内側の表現物の存在と属性が分かるようにされていればそれは検閲されている訳ではないという考えているということです。

念頭に置いているのは、AVコーナーです。暖簾があって(ない場所もありますが)全ての人に見せることがなかったとしても、その存在を暖簾を見た者に外から知らせることは出来ますし、それによって表現物を見ようと思った者はそれを妨げられることはない、という点であれは検閲ではないと考えています。ただし、その中に入ってはいけないとする未成年者や、そのコーナーにすら置いてはいけないとする猥褻物については検閲がなされていると考えています。

 

さて、トランプ氏の凍結についてですが、以上の私のスタンスに照らし合わせると、Twitter社の縄張りの中でトランプ氏が表現不可能になったとき、トランプ氏は自身の表現を全ての人が見れる場所に置き、全ての人がその表現物の閲覧如何を決めれる状態に置かなくなっているのか、という問いが出てきます。実際、氏はTwitter凍結直後、(後に出来なくなるとは言え)他のSNSを用いた表現をおこなっています。また、彼の大統領という立ち位置を用いれば他の手段を取りうることは出来ると考えられます。従って、Twitter社による凍結は特段表現の自由を害するものではないと考えられます。

 

このような結論に至ったのはインターネット言論空間において、Twitter社の縄張りであるTwitterはあくまでも一部分に過ぎない、ということです。つまり、インターネット上にアドレスを持つ為の手続きを一括して行なっている主体によるアドレス所持の拒否であったり、iPhoneなど特定のデバイスからのアクセスの承認の権限を事実上独占しているApple社やGoogle社とは異なり(この2社はこの観点からみて検閲と捉えられる行動に移ってはいるが……)、単純にアクセス先を変更するだけで表現者と閲覧者とが対話することが出来るという点で、問題ないという訳です。

また、別の論点になりますが、自身の縄張りをどのような空間にしていくかを決定する権利はその縄張りの主が持っています。つまり、Twitter社はTwitterをどのような言論空間にしていくのかを決定する権利があり、それに基づいて凍結を行うのは問題ない行為であるといえます。この「どのような言論空間にするのか」という方向性はTwitter社とユーザーが結ぶ契約の一つである、利用規約に載っていて、そこには禁止行為がふわっとした表現で会社側が有利に解釈できるように書かれている物です。要するにTwitter社が気に食わない表現は大概利用規約に則り削除ないしアカウントの凍結が出来るのです。

とはいえ、ユーザーとしてはそのような凍結にあった時、どの規約に触れて凍結に遭ったのかは知りたいというものです。明文化されている部分に触れているのか「その他」なのか。この凍結に至った理由の説明がなされず、異議申し立てにもほとんど応じることはないことは普段からTwitter社が批判を浴びる所でした。しかしながら今回のトランプ氏凍結には明確に説明したのである。

Permanent suspension of @realDonaldTrump

問題はこの内容である。このサイトは英語という難解な暗号で書かれていて読者諸君にはアレルギーを持つ者もいるかと思われるので、僭越ながら要約すると、

「ツイート自体は問題ないが、情勢なども考慮すると、テロを扇動していると読めるから」

衝撃の事実である。Twitter社は文脈を読めるのであった。Twitter社は「蚊を殺す」という表現だけで凍結する企業であり、文脈を読めないから「殺す」だけに反応する無能だと思われていたが【凍結問題】「蚊を殺したら永久凍結」にTwitter日本公式アカウントが反論? 反応まとめ - Togetter、実はこれらも文脈を読んだ上で凍結していたのである。なんと生態系に優しい企業であろうか。

 

とはいえ、この文脈の読み方はどうだろうか?

まさに議員に向かって"歩いていった"暴徒に対して「納得いかないかもしれんが家に帰れ」といった旨の表現がテロないし暴動を扇動していると言えるのだろうか?この解釈が出来るのならばどんな表現でも規制できてしまう。ここが気に食わないのだ。

 

主題に戻るが、何故私がTwitter社のトランプ氏凍結を非難したのかというと、別に表現の自由だとかその他お題目の為などでは断じてなく、過去に凍結された韻を踏み続けるだけのアカウントや、松屋の牛丼を食うだけのアカウントがなぜ凍結されたのか、いよいよ分からなくなってしまうからである。

政治家が提案した政策は納得がいくが答弁が気に食わないという気持ちに似ている。他の言い方があったろうに何故その言い方を選んだ?お前この件理解してないだろ?と思ってしまったのである。

この怒りはクソデカ理念に基づく物ではなく単純に個人の契約についてのありようを非難していたのであった。

 

結論としては、今回の一件は別に表現の自由とは関係ありそうで全く関係ない。

学長杯でクソみてえな原稿携えてしまった話

原稿は作成できなかったので事前投稿できなかったし、相続制度廃止論については今土地関係の影響を調べているところなのであれも卒論が書き終えてからになるだろう。求められているかは知らないが。

 

記録が正しければ去年の11月ごろに発起人から声をかけられた。弁論大会にでてくれ~と。正直なところ、そろそろ弁論ではない他の方法に力を入れたいと思っていたので、断ろうとも思っていたのだが、私は自意識過剰ながら、國學院にとってはある種記念碑的な存在だと自負していた。というのも私が國學院を「界隈」に引きずり込んだのである。東大総長杯で質疑をした彼に名刺を渡し、同期会に呼んだのは他ならない私である。そういえばその時も宮古だったから恐らく私が開催したのだろう。日吉さんあの時に言った新年会の寿司はどうなりました?

ともかく開催の因果の一端を担っているという実感がある以上出る他あるまい、山の賑わいにでもなろうという気持ちで出場を決めた。一応私は大会の性質に合わせようと思っていた。実際直近の福澤杯は『学問ノススメ』に基づいた弁論をしていた。「新入生に見せる模範的な弁論」を期待しているとのこと。無理じゃん。この私はただただテーゼに対して雑にアンチテーゼを投げることしかしてこなかった。というか何もかも雑であった。私自身弁論は雑で良いのだ(丁寧に作って私生活が崩壊する方が不味い)という考えではあるので、これを321個人のあるべき弁論姿勢でありこれが模範として成立させていいというのならそれでいいのだが、そこまで定義を拡大してしまうと良い弁論を作れという話になってしまう。無理な話である。

当時は5月に開催するとのことで、入学して1か月これから本格的に講義を受けようという新入生に対してなにか言えることがあるかと考えると、これはある。と、いう訳で本弁論は説得対象を入学1か月の弁論とかやりそうもない(ふらっと会場に入ってきた)國學院大學の新入生に絞ることとなった。

弁論冒頭の「國學院大学長杯大会開催おめでたい」ってのは韻を踏んだってのはそうなんだけど、元々は新入生に対して入学おめでとうという部分だった。導入の自転車の導入に再利用したが、あまり綺麗なものではないと思ってはいた

 

当時(というよりそれ以前からでもあるし今もそうなのだが)アンチ”現代社会を支える思想群”だった。狭義にはアンチ経済学であり、アンチ資本主義であり、学部経済学*1に毒される諸学生の存在にはひどく心を痛めていた。別に人間を数字に置換するなんてなんて非道な!などという態度を取っている訳ではない。殆どの主流派経済学が成立することを前提とする厚生経済学第一定理、所謂「見えざる手」の成立自体はかなり特殊な状況を前提としているという事実に殆ど触れられず、ただ成立するのだと説明され暗記させられている。数学的には”少ない仮定”で成立を証明出来ているという点でアローはノーベル経済学賞を受賞こそしたが、その仮定が非現実的な仮定であれば結論もまた非現実的である。その非現実を現実だと頭ごなしに説明する学部経済学は理解に苦労するし、理解してもさした利益はない(単位は来る)。それらに苦悩する経済学部生ないし教養を強要される他学部生に救いの手を差し伸べようと考えた。実際の國學院大學のカリキュラムは知らないので、本当はゴミみたいな経済学者がいるのは明大前か行っても駒場東大前までで、澁谷にはいないかもしれないとは思ったが、調べることも出来ないので保留とした。

 

そんなことを考えているうちに例のウイルス騒動があった。というより今もあるのだが。

新入生を苦しめたのは経済学者ではなく、コロナウイルスだった。まあ、経済学者がもっとちゃんとしていれば被害は少なかったのかもしれないが高が知れているだろう。クソみてえな原稿を携えてしまったのはこうした情勢の動きに対応しようとして失敗したという節があったのだが、まだ当時は骨子は生きていた。まあ骨子自体は今も残ってはいたが、今考えると貧弱な骨子だったと思っている。怒りで弁論は書くものではない。

私の弁論をぶちこわしてくれたのはコロナ騒動によって顕になったアメリカ国内の格差問題(元々そんなに隠れてはいなかったが)によるBlack Lives Matter問題である。

元々州の自治が強い国ではあるので、さらにそこから自治区が産まれるとは思わなかった。別にこの事件で自分の弁論に矛盾が生じたとかそういうのではなく、新規性がかなり薄れてしまったのだ。

 

元々の弁論の骨子はこんな感じだった。

現代社会が大前提としている、市場の働きは効率の悪い主体が「市場から退出」することによって成立する。では市場から退出した主体はどこへ行くのだろうか?もちろんまずは他の市場へ流れるだろうが、それはコーヒーがないから紅茶を買うぐらいの話ならまだいいが、”労働市場”から退出した主体はどこへ行くのか?*2死ぬんだよ!!!

元から死ぬ命だ!死ぬ気で抵抗しろ!今死ねって話じゃないタイミングを見計らえその瞬間に最大火力をぶちかませ今はその準備をしろ

 

的な。

でもBLMがやってくれちゃいました。すごいね。出来るもんなんだね。ということであれが響く人はBLMで既に響いていて、響かない人にはもう響かない状況になってしまいました。勿論響く人に言えばいいんですけど、それは説得じゃなくて共感なので。

 

とにかく弁論は練り直す必要が出てきました。コロナウイルスによって現代社会の欠陥は次々と暴露されました。弁士より雄弁に、大会より広大に。もはや、私の考えを共有していない人はこのコロナ禍を見ても理解できない馬鹿のみとなってしまいました。ちゃんと考えられる人は僕なぞよりもコロナ禍を分析してもっと深い理解に辿りついているはずです。大会延期もあいまり、説得対象を変える必要が出てきました。

 

國學院大學入学1か月の新入生」から「國學院大學入学半年の新入生の中でもコロナ禍の惨状を見ても気付けない馬鹿」へ

 

賢い人は説得をしなくても説得可能であれば各々で答えを導いているでしょうから、やらなくてはいけないのは馬鹿にも伝わる表現と内容をどうするかです。

超具体的な説得対象は、「今回たまたまコロナが来ちゃっただけでしょうがない」と言っていた人でした。それがテレビの中の人だったか知り合いだったか家族だったかは覚えていませんが、確かに耳にした一言を発した人です。当然その人自体は会場にいないし説得は出来ませんが、同じことを考えている人はいるはずです。「今回のはただ不運だっただけなんだ」

元々は経済学の欠陥を可能な限り論理的に説明して経済学のいうところの「見えざる手」というのは世界をよくしてくれる魔法ではなく、使えない金のない奴を殺していくとあら不思議使える奴と金のある奴だけ残ってますという殺し屋のそれだからいい加減目を覚ませ的な話をするつもりでした。ただ、このような説明をしても今回の説得対象に伝わるかは分かりませんでした。

説得内容を変える必要が出てきました。

説得内容を「コロナは偶然ではなく必然である」に変更しました。*3

これを直観的に分からせる必要がありました。私が用いたのはとにかく1つの概念を押し出してそれとの共通性を感じ取らせるという物でした。今回比喩として用いたのは自転車(ないし乗り物)とブレーキと赤信号でした。

自転車は社会全体、ブレーキは社会の運動を停止させるもの、赤信号はコロナをそれぞれ例えた物です。

ブレーキとは何かよく分からなかったと講評で言われましたが、実際の所存在しないので仕方がありません。経済全体を停止させる機構はどこにもありません。おそらく停止した社会が分からないという趣旨だったのかなとも思いましたがこれも恐らくどこにもないでしょう。お正月には7日間働かずに家にいる風習があったと言いますが、これがおそらく近いでしょう。誰一人働いていない状態を1週間続ける、これが停止の定義になるんじゃないですかね。個人的な考えとしては、農大の弁士が質疑で言っていた共同体のありかたが相応しいとも思っていますが、別にその社会もブレーキが踏めるわけではなく、低速なので何かにぶつかっても大事故にはならない程度の話だと思っています。

 

こんな感じの方針が定まったのは一か月前ぐらいでした。そんだけあれば書けるやろと思ってはいたのですが、できませんでした。理由としては、自宅での執筆が部室での執筆と比べて思ったよりもうまくいかなかったという点とやたら中間レポートが課せられたという点です。普通に自分が遅筆だったのでこれらがなくてもぎりぎりだったとは思うのですが、仕方がありません。クソみてえな弁論して恥を書くのは覚悟の上だったのですが、大会の質を堕としたとしたら申し訳ないです。

 

観光税とかいう政策をぶち込んだのはただの尺稼ぎでした。演練したら7分がそこらだったので減点対象だったので増やしたというのと、思いつきを吐き出したかったという欲がありました。政策の内容はあれで以上です。観光業界に税をかけると何故観光業界が救われるのかという理由付けはいくつかありましたが、まあいいでしょう蛇足です。

一応書いておくと蛇足

罪悪感を理由にやっていなかったことに対して罰を課すと罪悪感が薄まりやるようになることがある

課税した額はそのまま観光業界に還元すればそれぞれの業者が値上げせずに(顧客の反感を買わずに)値上げが可能になる

課税は消費者が業者に払い、それを業者が国に納めるという形になるが、納税までの期間はその額は業者の裁量で運用できる(納税を遅らせられればそのまま収益の増額になる)

というのは考えてあったけど言いたいことではない。

あれは時間稼ぎであり、ブレーキを踏めるようにしようとは具体的にどういうことかの例示に過ぎないから。

ただそれを明示する締めをしてなかったから誤解さえるのもしょうがないなって感じだったね。続きが聞きたかったという声もあったけど必要だったのはその締めだけで、あとはGOTOトラベルで税金トラレルみたいなギャグだけだったんだよね。

 

正直なところ結局國學院大學一年生がこの弁論を聴いていたのかというとそうではないと思う。大会運営に1年生がいたかもしれないが、そこを説得対象にしていたつもりはないので、カメラの向こう側にしかいなかったと思うが、ちょっと音質がよろしくなかったので、あれを聞こうとするような人間は殆どいないだろうし、第一そういう人間が説得対象になり得るとも思えない。という状況が予測できなかったかというとそうでもないので、あまりやる気が起きなかったという説明も出来る。やる気があればどうにかなったのかというとそうでもないのだが。

 

言い訳だけは饒舌になる男だったので原稿はろくに書けなかったが、備忘録は4500字にも及んでしまった。悲しいなあ

*1:私が話してきた経済学者は経済学の矛盾点を指摘すると、一様に最先端の経済学ではそこを克服していると主張するのでここではこのような造語を用いた。その最先端経済学とやらはいつになったら表に出てくるのだろうか?

*2:もちろん労働市場も一枚岩ではないがそれ込みの””である

*3:それであれかよとお思いの方もいらっしゃると思いますが同感です

モザイクを付けたりして見えなくするとむしろエッチになるよねという話

ttps://jp.pornhub.com/view_video.php?viewkey=ph5d9796517875e

僕が大学一年生のとき弁論大会で

「AVについてるモザイクって意味ないよね」

っていう話をしたんですが、これは

「モザイクがついたらエロくなくなるやんけ」

っていう主張ではなくて寧ろ

「モザイクつけたところでエロいものはエロいしえろくない物もえろくなるよね」

という主張だったんだよね

 

18禁コーナーってあるじゃないですか。あの暖簾を超えるのって滅茶苦茶ハードルありますよね。実際のところ現実的に可能なゾーニングの最たる状態なんじゃないかなって思っています。しかしながらあれは「公然」の場なんですよね。

 

刑法175条は「わいせつな文書、図画、電磁的記録に係る記録媒体その他の物を頒布し、又は公然と陳列した者は、2年以下の懲役又は250万円以下の罰金若しくは科料に処し、又は懲役及び罰金を併科する。電気通信の送信によりわいせつな電磁的記録その他の記録を頒布した者も、同様とする(第1項)。有償で頒布する目的で、前項の物を所持し、又は同項の電磁的記録を保管した者も、同項と同様とする(第2項)。」と規定する。(Wikipediaより引用) 

 

あのAVコーナーは公然の場なのでモザイクが外された作品が置かれてると犯罪になるらしいんですよね。でもモザイクがつけられると猥褻物ではなくなるので合法ということになってるらしいです。

 

 

一番最初に上げた動画リンクは胸をあらわにする動画をカット編集にするもので、AV一般に適用される基準よりはるかに「健全」なんですけど、こんな動画を観続けたら性癖捻じ曲がると思うんですよね。こんなものをわいせつ物とみなさない解釈はいかれてんじゃねえかなと思うわけです。法益を考えたらこんな運用おかしい訳です。みなされても困るわけですが。

 

つまるところですね、2年前の弁論の導入の補足をしたい訳ですよね。弁論本体は不快感の許容なので本題とズレるわけですが。

企業努力でシコリティを増す為にモザイクをかけるのは応援するわけです。僕は紳士枠とかも好きですからね。しかしながら外部圧力でモザイクをかけさせられるのはおかしな話なわけです。

www.nicovideo.jp

モザイクはシコリティを高めるための神聖な道具であって、作品の質を堕とすための呪いであってはならない訳です。昨今の技術の進展は著しいものであり、3dCGの多用や解像度の高まりも質の向上に寄与していることは確かですが、一方ドットアートが優れた作品であることもよく実感できるようになりました。undertaleが大ヒットした理由もドットの想像を掻き立てる部分とかも寄与してるんじゃないかなと思うわけです。ただ、これは市中に高解像作品がある中でドットゲーがあるからこそ輝いて見える訳で技術的にこれらしか選択できないとなると話は別なわけです。

 

何が言いたいかというとですね、どうみてもわいせつな物がありそうな場所も公然の場って言うのをやめろって話ですよね

 

あとAVも別にわいせつじゃないんだからそこら辺のものを猥褻物扱いするのやめろ

結局政治とは権力拡大闘争に過ぎないという命題からの抗い

こんにちは、課題が終わりません。321です。

 

政治とは何か、という問いに対して二つの答えがあるように思われます。

 

  1. 社会(やそれに属する)全体の利益を高めるための機能
  2. (政治運動をする個人や団体という)行動主体の利益を最大化するための行動

 

1は所謂「無知のヴェール」という語で全てを表現できるものだと思います。現在の自分の立場を考慮しない営みを支える為の物です。これらの営みはまず、一般にその社会が共通して持つ、達成するべき原理原則が存在し、それに基づいて運営されようとするものです。このような背景の裏には、政府が存在しない社会は公共財と呼ばれる財の保全が上手くいかないといった理由で個々人の利己的振る舞いだけでは個々人ないし社会全体の利益が最大化されないという問題があります。

 

2は1のような”建前”も個々人の利益の最大化の為であり、必要とあらば、自分以外が無知のヴェールに包まれている隙にそれらが集めた財を自分の為に使わせるような振る舞いも許される⋀推奨される行為であるという考えが背景にあります。あらゆる自分が取れる選択肢は自分の利益の最大化の為に取られるべきであり、それは社会全体の功利を重視しようとする政治という範疇も例外ではない、という考えです。

 

こんな説明で伝わっているのか分かりませんが雰囲気は伝わったものとして先に進めますが、

 

政治という範疇に限っては、そのような弱肉強食的な発想=2から独立した部門であるといういわば幻想を追いかけて20年が経過してしまいました。覚えている限りでは最初に政治に対して興味を示したのは小泉政権郵政民営化のときだったと記憶しています。その頃から誰に言われるまでもなく、少なくとも建前上は(裏で利権と呼ばれるあれこれがあるとはいえ)社会全体の利益の為に政治が行われるべきである、という考えを持っていました。そしていまだに捨てきれずにいます。

私はこれまでに弁論(10分程度の演説のようなもの)を弁論大会で三つ発表してきました。この三つに共通している考えが、政治は利己的な運動に晒されてはならない(仮に利己的な考えによる政治運動が起きたとしてもそれが行われること自体が社会全体の為になると考えられ認められるべきである)という物があります。

 

最初の弁論は「それが不快であるからといって表現を取り除いてはならない」という主張をしました。僕だって不快になる表現はあります。なくなればいいとさえ思ってしまう程には強い感情を抱くこともあります。最近の動画サイトの広告は酷い在りようだなと思います。然しながら、あれらの表現を取り除いたところでそれらの表現を不快だと感じてしまう根本的な理由―恐らくこれらには社会にはびこる強いルッキズムがあることが要因にあると思われますが―はなくなることはありません。あの手の不快な表現が在ること自体が社会の持つ問題点をあぶり出すので長い目で見れば必要なのだ、という主張だったのです。勿論、表現の自由とは政治的な理由のみで保障されるべきとは考えませんが、兎に角あの弁論では1の意味での政治に利するからという理由で行っていました。(ただあの手の広告の時間制限ぐらいは設けてもいいと思います。30秒もあればいいんじゃないでしょうか。)

 

二つめの弁論は「より民意が反映されるような選挙の在り方」を主張しました。これは実質的な政治力(投票を以て結果を変えられるような力)を持たずともマイノリティが言説の場に立つこと自体はマジョリティから見ても利するものだと考えていたし、少なくともマジョリティも利己的な動機だけで政治を行うわけではないのでマイノリティの言説を(必ず採用するとはいかないまでも)聞く耳は持つだろうという考えがあり行ったものでありました。

 

三つ目の弁論は「相続制度を廃止すべし」というものでしたが、これに関しては正直利己的な動機はマジに一ミリもありませんでした。弁論中に挙げた孫正義みたいな金持ちではないとはいえ、親が死ねば大金が転がり込むであろう側の人間です。相続制度が廃止されて困るのは大した能力もないのに親の金で生かされている他ならぬ私なのです。実際のところ論破されたかったという側面があったのでしたが、ポルポト政権やルーマニアチャウシェスク政権と同一視されたのはマジで聴衆に絶望しました。

ルーマニア政府が国家政策として避妊堕胎手術を禁止した上に、法律で女性に5人以上子供を産むことを強要したことにより、後に「チャウシェスクの落とし子」と呼ばれる大量のストリートチルドレンを生んだ(wikipediaより引用)あの政策と同一視されたのはマジで想定外すぎて質疑に困ってしまったね。

こんな自分にとって利益のない政策を打ち出したのはそれでも社会には利益があるからだと思ってたからです。

本題に移るのですが、今欧米では白人vs黒人という構造で政治運動が過激化しています。この問題は欧州-アフリカ-アメリカ間で行われた三角貿易が行われた時代或いはさらに以前にさかのぼる必要がある根深い問題です。これは単純に問題が長期にわたっていることだけが根深い要因になっているわけではありません。これは現代の最重要視されるイデオロギーである資本主義の根本をゆるがす問題です。

本質的に資本が資本を呼ぶ資本主義においても最初の資本、原資が必要です。その原資はどこから来たのでしょうか。残念ながら、プロ倫に書いてあるような節約によって生み出された富だけでは説明がつかないほど急激な蓄財が起きています。ある者が別のある者から何らかの方法で財を奪うことで蓄財が進みました。それは奴隷から労働力を奪った奴隷商人かもしれないし、あるいは勝ち馬を引いたギャンブラーかもしれません。裏で財を(最悪の場合命を)奪われた人が沢山いる中で財を集めた者の登場で財の集積は更に高まります。最初の原資の集め方が紳士的ではない以上、それ以降の資本の流れは紳士的ではないということが出来ます。この資本主義の動力に暗い影がある以上、資本主義の産物を攻撃すること自体は無理もないものであるとは思います。

ただし、私の弁論で申し上げたのは、財を破壊することで平等を再度実現することではなく、財の分配を強力にすることで平等を実現しようということでした。暴力を伴わない常時的な革命を実現することで、今欧米で起きているような暴動を抑えられるだろうという発想にあったのです。しかしながら、私の意見は受け入れられることはありませんでした。確かに暴動の方がみてて面白いですものね。

 

ただし、今の欧米の動きでこれは違うだろうと思ったことは、人種問題ではなくないか?ということです。人種問題にするには殺された黒人の素行が悪すぎます。全く抵抗せず警察に捕まったと表現するにはかなり暴れたように見えました。(これに関してはネットで拾った動画を観ただけなのでデマである可能性はありますが、つい此間の射殺事件をみるに、黒人側は清廉潔白(この白という字を人種問題と連想付けるのはやめて欲しい物です)だったとは言い難いように思えます。)何故彼ら黒人が犯罪を起こすようになったのかまで深堀しなければ黒人側の言い分に正当性を持たせることは出来ません。つまり、彼らは経済的に不利な立場に立たされているがゆえに犯罪に手を染めざるを得なかったという物語が必要なのです。ただし、これを考える上で必要なのは、奴隷商人だった(財を奪う側だった)黒人もいれば、労働者として疎外されていた白人もいるわけです。そして白人でも黒人でもない人種も存在する。この問題は対資本家という構図でのみ機能する問題であり、Black Lives Matterと表現できる問題には落とし込めないのだということです。

 

然しながらこの理論武装は意味を成しません。

 

何故なら、この運動は飽くまでも黒人の権力拡大闘争に過ぎないからです。黒人と白人の力関係を等しくすることが目的ではありません。黒人の権力を拡大することが目的なのです。力関係の均衡は白人の権力拡大闘争とぶつかることでしか実現しません。

 そんな雑な運動では均衡が達成されないことは明白です。それは資本家対労働者でも男対女でもあらゆる構図に言えることです。等しくない力関係は暴動を産みます。小さな格差は小さな暴動しか生まないかもしれませんが、それは権力拡大闘争ではないという前提のもとであるし、格差は格差を生むのです。それが権力拡大闘争である限り暴動は終わることはないでしょう。

 

然しながら理想がどうだろうが現実に起きているのはただの権力拡大闘争にすぎないので、今回の問題については、静観しつつ、同時に絶望していきます。

10万円が世帯主が総取りしてしまうかもしれない話

10万円貰ってますか?

総務省|特別定額給付金

さて、政府から10万円もらえるというこの制度の詳細が出ましたので論点をちょっとだけさらってみます。

 給付対象者及び受給権者
 給付対象者は、基準日(令和2年4月27日)において、住民基本台帳に記録されている者
 受給権者は、その者の属する世帯の世帯主

給付金の申請及び給付の方法
 感染拡大防止の観点から、給付金の申請は次の(1)及び(2)を基本とし、給付は、原則として申請者の本人名義の銀行口座への振込みにより行う。
 (※)なお、やむを得ない場合に限り、窓口における申請及び給付を認める。その際、受付窓口の分散や消毒薬の配置といった感染拡大防止策の徹底を図る。

つまり、10万円給付の受け取る権利がある人は世帯主であって、個人にはないということです。これは、事務作業の手間などを考慮すれば、妥当な方針であると考えれられます。

また、原則的に申請者(ここでは受給権者と同じ人であると思われます。)の銀行口座への振り込みです。

国民1人に一律10万円給付、申請書の様式を公表 給付辞退も可能 - ライブドアニュース

申請書を見ても、まとめて給付されることは明らかです。

 

ここで問題となるのは、

家庭内の力関係が大きく世帯主に偏っている際、給付対象であるにもかかわらず、10万円を受け取れない人もいるということです。勿論、世帯主が最終的に生活費の全てを負担しているのであれば、最終的に帳尻はあうとも言えるのですが、収入減が世帯主一人である家庭だけではなく、共働きであったり子供も働いている場合などもあり、それらから直接生活費等を工面している場合、本来救済しなければならない人に救済の手が届かないことになってしまいます。

 

一応これにも政府は回答を出しています

【Q&A】10万円いつ、どうすればもらえる? 届いた申請書を返送 - 産経ニュース

 Q 世帯ごとの給付だと不都合な人もいる

 A ドメスティックバイオレンス(DV)などで住民票を残して別居しているケースもあり、今後、対応を検討する。

 DVなどで別居しているケースにおいては、今後対応される可能性があります。

ただし、DVがある家庭全てではないので、対応策が不十分である可能性もまだあります。

 

つまり、同居はしているが、世帯主に家庭内権力が集中しすぎていて、各給付対象者に配られなくなってしまう人が出てしまうことが問題になります。

 

 これの解決策は非常に難しい物になります。具体的にどの世帯がそのような問題を抱えているのかは識別も難しく、実際に給付された後にそのような問題が発覚したとしても別に改めて給付をすることも困難でしょう。

政府の対応を期待します。

 

キャンペーン · コロナ対策の10万円給付を個人申請可能にしたい! · Change.org

このような署名運動もあるそうです。

 

 

ぬいぐるみからペニス出してますか?

こんにちは、ペニスがついている321です。

 

突然ですが、ぬいぐるみペニスショックってご存知ですか?

下心が感じられない友人関係にある(と思っていた)男性から突然恋心を伝えられた女性の衝撃のことです。

 

そういう女性の心的負荷をかけることは僕としても望ましいことではないとおもうので、ぬいぐるみからペニスを出すことはしたくないんですが、一般的に生物はペニスを出さなければ生殖が出来ず、絶滅に至る傾向があります。最近の流行りのSDGsに乗っかるわけではありませんが、やはり私もイチ生命として種の存続を願い、ペニスをだしていかなければなりません。国も少子化は望ましくないらしいです。お国の為にペニスを出していかなければなりません。

 

一般に普通の男性は自身がぬいぐるみ化する前に徐々にペニスを出していくらしいです。

しかしながら、私に徐々にペニスを出すことは出来ません。アナログに徐々に状態を変化させることは出来ずデジタルな0.1の変化しかできません。「先っちょだけだから!」という人の9割は先っちょに端から留まらないつもりでしょうが、実際先っちょですませることは非常に難しい物です。出すか出さないか。不器用な人間にはこれしか選択肢がありません。

 

出すかひっこめるかしかできない人間にとって、出てない状態から突然出てきた状態になることも、永遠にしまい続けることも出来ないとすれば、選択肢は一つしかありません。出し続けることです。

 

大体私はぬいぐるみではありません。ペニスのある普通の人間のはずです。先っちょだけ出すことのできない不器用な人間のはずなのです。私にもペニスが在ることを無視しないでください。ペニスとは所謂下心のことです。何も露出狂めいて私の男性器を見てくださいと眼前に差し出す訳ではありません。目の前の貴方と懇ろになりたいという感情があることを否定しないで欲しいということです。

 

別に私と懇ろにはなりたくないという貴方の感情を否定したい訳ではありません。その両者の感情を公にした上で、懇ろにならなければいいだけなのです。

 

しかしながら、感情を公にすることは非難の対象となっています。私は中高別学の人間で、小学校までの恋愛観を保持し続けているのですが(とはいえ其の頃も誰かに恋愛感情を吐いたことはありません。)、共学では誰かに告白することはそれだけで嘲笑の対象たりえて、酷ければ虐めに発展することもあると聞きます。いずれにせよ今までの学生生活が送れなくなるかもしれないという危険性があることは否定できません。勿論告白というのは確実に成功すると確信して行うものなのでしょうが、今回は初めに口説きだす段階の話をしています。告白という一大イベントに入らずとも”気がある”ことが判明した時点で以上のような危険性はあるものなんだそうです。

この話の本質は相応しい人間が見せる好意なら良いがそうではない好意は断罪の対象である(が、相応しいかどうかは好意を見せてみないとわからない)という基準の運用の難しさにあるので、そんな運用不可能な基準やめようね!って話なんですけど、大変ですよね。それこそ徐々に感情が移り変わっていくのを待つほかないのですが。

 

以上も私の勝手な推測なんですが、以下はもっとキツイ思い込みになります。

 

私は以上のペニスを出すことの嫌悪感というのは、性的なものへの嫌悪感や忌避感にあるのではないかと思っています。

これは以前から言っていることでした。1年生の時に発表した見えない所というのは本来、同年の新弁の優勝弁論「春を売る」に対して、売春が公にされず、従事者が暴力団によって搾取されている現状は性の忌避感にあり、これを解決するにはこの性の忌避感を取り去らなければならないのではないか、という趣旨の主張が始まりでした。先輩方により、この問題は何も性にかかわるものだけではないと拡大解釈されあのような物になったらしいのですが、とにかく生き物の存在に必須級のセックスについて隠そうとする振る舞いが以上の異常な環境を産んでいる(そしてその環境が感情を醸成している)のだというのが見えない所という弁論の根幹たる主張でした。

 

セックスというのは強く恋愛に結び付いた物です。セックスを隠せば同時に恋愛も隠された物になってしまいます。隠されたものに対して適切な対応が出来ないのは当たり前じゃないでしょうか。

セックスと共に隠されたことだけならまだただ不器用な人間である私が淘汰されるだけで済みます。何故なら、恋愛感情というのはセックス相手の選別に適するように進化の過程で獲得したものだからです。多少目隠しされたところで野生の缶は適切に働くでしょう。然しながら問題はこの自然の恋愛感情に権利意識が付与されたところです。

男は女と強引にセックスしたいものであるという暗黙の了解(私はそうではありません)とセックスはお互いの合意を以てなされるべきだという権利意識は明らかに矛盾します。仮に女性が乗り気だったとして、性交契約書なるものを床の上で署名させられれば冷めるのも無理はないのではないでしょうか。私はそちらの方がいいんですが。次第に暗黙の了解を踏襲する男性はいなくなります。権利意識に訴えられるのは面倒だからでしょう。セクハラという語が盛んになったころと草食系男子という語のそれはかさなっているのではないでしょうか。冷静に考えて、男子が草を食っていて何が問題なのでしょうか。女性が肉食男子を求めていたからにほかなりません。先の例であれば据え膳に手を付けず帰ってしまえば甲斐性無しだとか意気地なしだとか罵られたり、自分の性的魅力のなさに悩まれることが在るのもその証左でしょう。

 

男性が家に帰ったのはあなたに魅力がないからではなく権利意識が強かっただけです。勝手にぬいぐるみにするのも、潜在的なレイプ魔にするのもやめてください。その男性も私もただのペニスのついた人間なのです。

 

私は合意あるセックスを望みます。しかしながら、オラオラ系と呼ばれるタイプの男性に魅力を感じる女性が多いのも確かです。壁にドンが話題になったのも記憶に新しいでしょう(流行語となったのは壁ドンですが、別用法のものと混同を避けるため新谷良子氏の造語を用います)。そのような人に契約書を見せてもなえさせるだけなのではないかと危惧しています。

 

以上のような危機感から自己と未来の男女を救うための解決策を私は持ち合わせていません。

しかし私は以下のスタンスを選ぶと決めました。最初からスタンスをだしてしまうことです。私はペニスと契約書をもつただの人間だと公にするのです。これには大きな問題を抱えています。ペニスをみたくない女性からは嫌われ、彼女らの騎士からも嫌われてしまいます。それは大多数だと思います。事実このようなスタンスをとった結果、1年の前期に大きな人間関係のこじれを産んでしまい、今でも引きずる結果となりました。今オンライン講義が決定しているのを実は喜ばしく感じています。彼の目の前に姿を見せるなという命を覚えながらキャンパスを歩く必要がなくなったからです。そのような大きな問題を抱えながらもこのスタンスをとったのは一つの信念があるからです。人は一人ひとり違う個性を持ち好みも異なるはずだという信念です。私はメジャーな価値観で測られてしまえば多くの人間の劣化であることがすぐにばれてしまいます。そんな人間の生き抜く方法は自分と同じ少数派と巡り合うための努力をすること以外にありません。数少ない相手に自分がここにいるのだというアピールをするほかないのです。セミのように騒げば天敵に見つかることもあるでしょうが、生き残るためにリスクをためらってはいけないのです。

 

ペニス、出していきましょう。