学長杯でクソみてえな原稿携えてしまった話

原稿は作成できなかったので事前投稿できなかったし、相続制度廃止論については今土地関係の影響を調べているところなのであれも卒論が書き終えてからになるだろう。求められているかは知らないが。

 

記録が正しければ去年の11月ごろに発起人から声をかけられた。弁論大会にでてくれ~と。正直なところ、そろそろ弁論ではない他の方法に力を入れたいと思っていたので、断ろうとも思っていたのだが、私は自意識過剰ながら、國學院にとってはある種記念碑的な存在だと自負していた。というのも私が國學院を「界隈」に引きずり込んだのである。東大総長杯で質疑をした彼に名刺を渡し、同期会に呼んだのは他ならない私である。そういえばその時も宮古だったから恐らく私が開催したのだろう。日吉さんあの時に言った新年会の寿司はどうなりました?

ともかく開催の因果の一端を担っているという実感がある以上出る他あるまい、山の賑わいにでもなろうという気持ちで出場を決めた。一応私は大会の性質に合わせようと思っていた。実際直近の福澤杯は『学問ノススメ』に基づいた弁論をしていた。「新入生に見せる模範的な弁論」を期待しているとのこと。無理じゃん。この私はただただテーゼに対して雑にアンチテーゼを投げることしかしてこなかった。というか何もかも雑であった。私自身弁論は雑で良いのだ(丁寧に作って私生活が崩壊する方が不味い)という考えではあるので、これを321個人のあるべき弁論姿勢でありこれが模範として成立させていいというのならそれでいいのだが、そこまで定義を拡大してしまうと良い弁論を作れという話になってしまう。無理な話である。

当時は5月に開催するとのことで、入学して1か月これから本格的に講義を受けようという新入生に対してなにか言えることがあるかと考えると、これはある。と、いう訳で本弁論は説得対象を入学1か月の弁論とかやりそうもない(ふらっと会場に入ってきた)國學院大學の新入生に絞ることとなった。

弁論冒頭の「國學院大学長杯大会開催おめでたい」ってのは韻を踏んだってのはそうなんだけど、元々は新入生に対して入学おめでとうという部分だった。導入の自転車の導入に再利用したが、あまり綺麗なものではないと思ってはいた

 

当時(というよりそれ以前からでもあるし今もそうなのだが)アンチ”現代社会を支える思想群”だった。狭義にはアンチ経済学であり、アンチ資本主義であり、学部経済学*1に毒される諸学生の存在にはひどく心を痛めていた。別に人間を数字に置換するなんてなんて非道な!などという態度を取っている訳ではない。殆どの主流派経済学が成立することを前提とする厚生経済学第一定理、所謂「見えざる手」の成立自体はかなり特殊な状況を前提としているという事実に殆ど触れられず、ただ成立するのだと説明され暗記させられている。数学的には”少ない仮定”で成立を証明出来ているという点でアローはノーベル経済学賞を受賞こそしたが、その仮定が非現実的な仮定であれば結論もまた非現実的である。その非現実を現実だと頭ごなしに説明する学部経済学は理解に苦労するし、理解してもさした利益はない(単位は来る)。それらに苦悩する経済学部生ないし教養を強要される他学部生に救いの手を差し伸べようと考えた。実際の國學院大學のカリキュラムは知らないので、本当はゴミみたいな経済学者がいるのは明大前か行っても駒場東大前までで、澁谷にはいないかもしれないとは思ったが、調べることも出来ないので保留とした。

 

そんなことを考えているうちに例のウイルス騒動があった。というより今もあるのだが。

新入生を苦しめたのは経済学者ではなく、コロナウイルスだった。まあ、経済学者がもっとちゃんとしていれば被害は少なかったのかもしれないが高が知れているだろう。クソみてえな原稿を携えてしまったのはこうした情勢の動きに対応しようとして失敗したという節があったのだが、まだ当時は骨子は生きていた。まあ骨子自体は今も残ってはいたが、今考えると貧弱な骨子だったと思っている。怒りで弁論は書くものではない。

私の弁論をぶちこわしてくれたのはコロナ騒動によって顕になったアメリカ国内の格差問題(元々そんなに隠れてはいなかったが)によるBlack Lives Matter問題である。

元々州の自治が強い国ではあるので、さらにそこから自治区が産まれるとは思わなかった。別にこの事件で自分の弁論に矛盾が生じたとかそういうのではなく、新規性がかなり薄れてしまったのだ。

 

元々の弁論の骨子はこんな感じだった。

現代社会が大前提としている、市場の働きは効率の悪い主体が「市場から退出」することによって成立する。では市場から退出した主体はどこへ行くのだろうか?もちろんまずは他の市場へ流れるだろうが、それはコーヒーがないから紅茶を買うぐらいの話ならまだいいが、”労働市場”から退出した主体はどこへ行くのか?*2死ぬんだよ!!!

元から死ぬ命だ!死ぬ気で抵抗しろ!今死ねって話じゃないタイミングを見計らえその瞬間に最大火力をぶちかませ今はその準備をしろ

 

的な。

でもBLMがやってくれちゃいました。すごいね。出来るもんなんだね。ということであれが響く人はBLMで既に響いていて、響かない人にはもう響かない状況になってしまいました。勿論響く人に言えばいいんですけど、それは説得じゃなくて共感なので。

 

とにかく弁論は練り直す必要が出てきました。コロナウイルスによって現代社会の欠陥は次々と暴露されました。弁士より雄弁に、大会より広大に。もはや、私の考えを共有していない人はこのコロナ禍を見ても理解できない馬鹿のみとなってしまいました。ちゃんと考えられる人は僕なぞよりもコロナ禍を分析してもっと深い理解に辿りついているはずです。大会延期もあいまり、説得対象を変える必要が出てきました。

 

國學院大學入学1か月の新入生」から「國學院大學入学半年の新入生の中でもコロナ禍の惨状を見ても気付けない馬鹿」へ

 

賢い人は説得をしなくても説得可能であれば各々で答えを導いているでしょうから、やらなくてはいけないのは馬鹿にも伝わる表現と内容をどうするかです。

超具体的な説得対象は、「今回たまたまコロナが来ちゃっただけでしょうがない」と言っていた人でした。それがテレビの中の人だったか知り合いだったか家族だったかは覚えていませんが、確かに耳にした一言を発した人です。当然その人自体は会場にいないし説得は出来ませんが、同じことを考えている人はいるはずです。「今回のはただ不運だっただけなんだ」

元々は経済学の欠陥を可能な限り論理的に説明して経済学のいうところの「見えざる手」というのは世界をよくしてくれる魔法ではなく、使えない金のない奴を殺していくとあら不思議使える奴と金のある奴だけ残ってますという殺し屋のそれだからいい加減目を覚ませ的な話をするつもりでした。ただ、このような説明をしても今回の説得対象に伝わるかは分かりませんでした。

説得内容を変える必要が出てきました。

説得内容を「コロナは偶然ではなく必然である」に変更しました。*3

これを直観的に分からせる必要がありました。私が用いたのはとにかく1つの概念を押し出してそれとの共通性を感じ取らせるという物でした。今回比喩として用いたのは自転車(ないし乗り物)とブレーキと赤信号でした。

自転車は社会全体、ブレーキは社会の運動を停止させるもの、赤信号はコロナをそれぞれ例えた物です。

ブレーキとは何かよく分からなかったと講評で言われましたが、実際の所存在しないので仕方がありません。経済全体を停止させる機構はどこにもありません。おそらく停止した社会が分からないという趣旨だったのかなとも思いましたがこれも恐らくどこにもないでしょう。お正月には7日間働かずに家にいる風習があったと言いますが、これがおそらく近いでしょう。誰一人働いていない状態を1週間続ける、これが停止の定義になるんじゃないですかね。個人的な考えとしては、農大の弁士が質疑で言っていた共同体のありかたが相応しいとも思っていますが、別にその社会もブレーキが踏めるわけではなく、低速なので何かにぶつかっても大事故にはならない程度の話だと思っています。

 

こんな感じの方針が定まったのは一か月前ぐらいでした。そんだけあれば書けるやろと思ってはいたのですが、できませんでした。理由としては、自宅での執筆が部室での執筆と比べて思ったよりもうまくいかなかったという点とやたら中間レポートが課せられたという点です。普通に自分が遅筆だったのでこれらがなくてもぎりぎりだったとは思うのですが、仕方がありません。クソみてえな弁論して恥を書くのは覚悟の上だったのですが、大会の質を堕としたとしたら申し訳ないです。

 

観光税とかいう政策をぶち込んだのはただの尺稼ぎでした。演練したら7分がそこらだったので減点対象だったので増やしたというのと、思いつきを吐き出したかったという欲がありました。政策の内容はあれで以上です。観光業界に税をかけると何故観光業界が救われるのかという理由付けはいくつかありましたが、まあいいでしょう蛇足です。

一応書いておくと蛇足

罪悪感を理由にやっていなかったことに対して罰を課すと罪悪感が薄まりやるようになることがある

課税した額はそのまま観光業界に還元すればそれぞれの業者が値上げせずに(顧客の反感を買わずに)値上げが可能になる

課税は消費者が業者に払い、それを業者が国に納めるという形になるが、納税までの期間はその額は業者の裁量で運用できる(納税を遅らせられればそのまま収益の増額になる)

というのは考えてあったけど言いたいことではない。

あれは時間稼ぎであり、ブレーキを踏めるようにしようとは具体的にどういうことかの例示に過ぎないから。

ただそれを明示する締めをしてなかったから誤解さえるのもしょうがないなって感じだったね。続きが聞きたかったという声もあったけど必要だったのはその締めだけで、あとはGOTOトラベルで税金トラレルみたいなギャグだけだったんだよね。

 

正直なところ結局國學院大學一年生がこの弁論を聴いていたのかというとそうではないと思う。大会運営に1年生がいたかもしれないが、そこを説得対象にしていたつもりはないので、カメラの向こう側にしかいなかったと思うが、ちょっと音質がよろしくなかったので、あれを聞こうとするような人間は殆どいないだろうし、第一そういう人間が説得対象になり得るとも思えない。という状況が予測できなかったかというとそうでもないので、あまりやる気が起きなかったという説明も出来る。やる気があればどうにかなったのかというとそうでもないのだが。

 

言い訳だけは饒舌になる男だったので原稿はろくに書けなかったが、備忘録は4500字にも及んでしまった。悲しいなあ

*1:私が話してきた経済学者は経済学の矛盾点を指摘すると、一様に最先端の経済学ではそこを克服していると主張するのでここではこのような造語を用いた。その最先端経済学とやらはいつになったら表に出てくるのだろうか?

*2:もちろん労働市場も一枚岩ではないがそれ込みの””である

*3:それであれかよとお思いの方もいらっしゃると思いますが同感です