結局政治とは権力拡大闘争に過ぎないという命題からの抗い

こんにちは、課題が終わりません。321です。

 

政治とは何か、という問いに対して二つの答えがあるように思われます。

 

  1. 社会(やそれに属する)全体の利益を高めるための機能
  2. (政治運動をする個人や団体という)行動主体の利益を最大化するための行動

 

1は所謂「無知のヴェール」という語で全てを表現できるものだと思います。現在の自分の立場を考慮しない営みを支える為の物です。これらの営みはまず、一般にその社会が共通して持つ、達成するべき原理原則が存在し、それに基づいて運営されようとするものです。このような背景の裏には、政府が存在しない社会は公共財と呼ばれる財の保全が上手くいかないといった理由で個々人の利己的振る舞いだけでは個々人ないし社会全体の利益が最大化されないという問題があります。

 

2は1のような”建前”も個々人の利益の最大化の為であり、必要とあらば、自分以外が無知のヴェールに包まれている隙にそれらが集めた財を自分の為に使わせるような振る舞いも許される⋀推奨される行為であるという考えが背景にあります。あらゆる自分が取れる選択肢は自分の利益の最大化の為に取られるべきであり、それは社会全体の功利を重視しようとする政治という範疇も例外ではない、という考えです。

 

こんな説明で伝わっているのか分かりませんが雰囲気は伝わったものとして先に進めますが、

 

政治という範疇に限っては、そのような弱肉強食的な発想=2から独立した部門であるといういわば幻想を追いかけて20年が経過してしまいました。覚えている限りでは最初に政治に対して興味を示したのは小泉政権郵政民営化のときだったと記憶しています。その頃から誰に言われるまでもなく、少なくとも建前上は(裏で利権と呼ばれるあれこれがあるとはいえ)社会全体の利益の為に政治が行われるべきである、という考えを持っていました。そしていまだに捨てきれずにいます。

私はこれまでに弁論(10分程度の演説のようなもの)を弁論大会で三つ発表してきました。この三つに共通している考えが、政治は利己的な運動に晒されてはならない(仮に利己的な考えによる政治運動が起きたとしてもそれが行われること自体が社会全体の為になると考えられ認められるべきである)という物があります。

 

最初の弁論は「それが不快であるからといって表現を取り除いてはならない」という主張をしました。僕だって不快になる表現はあります。なくなればいいとさえ思ってしまう程には強い感情を抱くこともあります。最近の動画サイトの広告は酷い在りようだなと思います。然しながら、あれらの表現を取り除いたところでそれらの表現を不快だと感じてしまう根本的な理由―恐らくこれらには社会にはびこる強いルッキズムがあることが要因にあると思われますが―はなくなることはありません。あの手の不快な表現が在ること自体が社会の持つ問題点をあぶり出すので長い目で見れば必要なのだ、という主張だったのです。勿論、表現の自由とは政治的な理由のみで保障されるべきとは考えませんが、兎に角あの弁論では1の意味での政治に利するからという理由で行っていました。(ただあの手の広告の時間制限ぐらいは設けてもいいと思います。30秒もあればいいんじゃないでしょうか。)

 

二つめの弁論は「より民意が反映されるような選挙の在り方」を主張しました。これは実質的な政治力(投票を以て結果を変えられるような力)を持たずともマイノリティが言説の場に立つこと自体はマジョリティから見ても利するものだと考えていたし、少なくともマジョリティも利己的な動機だけで政治を行うわけではないのでマイノリティの言説を(必ず採用するとはいかないまでも)聞く耳は持つだろうという考えがあり行ったものでありました。

 

三つ目の弁論は「相続制度を廃止すべし」というものでしたが、これに関しては正直利己的な動機はマジに一ミリもありませんでした。弁論中に挙げた孫正義みたいな金持ちではないとはいえ、親が死ねば大金が転がり込むであろう側の人間です。相続制度が廃止されて困るのは大した能力もないのに親の金で生かされている他ならぬ私なのです。実際のところ論破されたかったという側面があったのでしたが、ポルポト政権やルーマニアチャウシェスク政権と同一視されたのはマジで聴衆に絶望しました。

ルーマニア政府が国家政策として避妊堕胎手術を禁止した上に、法律で女性に5人以上子供を産むことを強要したことにより、後に「チャウシェスクの落とし子」と呼ばれる大量のストリートチルドレンを生んだ(wikipediaより引用)あの政策と同一視されたのはマジで想定外すぎて質疑に困ってしまったね。

こんな自分にとって利益のない政策を打ち出したのはそれでも社会には利益があるからだと思ってたからです。

本題に移るのですが、今欧米では白人vs黒人という構造で政治運動が過激化しています。この問題は欧州-アフリカ-アメリカ間で行われた三角貿易が行われた時代或いはさらに以前にさかのぼる必要がある根深い問題です。これは単純に問題が長期にわたっていることだけが根深い要因になっているわけではありません。これは現代の最重要視されるイデオロギーである資本主義の根本をゆるがす問題です。

本質的に資本が資本を呼ぶ資本主義においても最初の資本、原資が必要です。その原資はどこから来たのでしょうか。残念ながら、プロ倫に書いてあるような節約によって生み出された富だけでは説明がつかないほど急激な蓄財が起きています。ある者が別のある者から何らかの方法で財を奪うことで蓄財が進みました。それは奴隷から労働力を奪った奴隷商人かもしれないし、あるいは勝ち馬を引いたギャンブラーかもしれません。裏で財を(最悪の場合命を)奪われた人が沢山いる中で財を集めた者の登場で財の集積は更に高まります。最初の原資の集め方が紳士的ではない以上、それ以降の資本の流れは紳士的ではないということが出来ます。この資本主義の動力に暗い影がある以上、資本主義の産物を攻撃すること自体は無理もないものであるとは思います。

ただし、私の弁論で申し上げたのは、財を破壊することで平等を再度実現することではなく、財の分配を強力にすることで平等を実現しようということでした。暴力を伴わない常時的な革命を実現することで、今欧米で起きているような暴動を抑えられるだろうという発想にあったのです。しかしながら、私の意見は受け入れられることはありませんでした。確かに暴動の方がみてて面白いですものね。

 

ただし、今の欧米の動きでこれは違うだろうと思ったことは、人種問題ではなくないか?ということです。人種問題にするには殺された黒人の素行が悪すぎます。全く抵抗せず警察に捕まったと表現するにはかなり暴れたように見えました。(これに関してはネットで拾った動画を観ただけなのでデマである可能性はありますが、つい此間の射殺事件をみるに、黒人側は清廉潔白(この白という字を人種問題と連想付けるのはやめて欲しい物です)だったとは言い難いように思えます。)何故彼ら黒人が犯罪を起こすようになったのかまで深堀しなければ黒人側の言い分に正当性を持たせることは出来ません。つまり、彼らは経済的に不利な立場に立たされているがゆえに犯罪に手を染めざるを得なかったという物語が必要なのです。ただし、これを考える上で必要なのは、奴隷商人だった(財を奪う側だった)黒人もいれば、労働者として疎外されていた白人もいるわけです。そして白人でも黒人でもない人種も存在する。この問題は対資本家という構図でのみ機能する問題であり、Black Lives Matterと表現できる問題には落とし込めないのだということです。

 

然しながらこの理論武装は意味を成しません。

 

何故なら、この運動は飽くまでも黒人の権力拡大闘争に過ぎないからです。黒人と白人の力関係を等しくすることが目的ではありません。黒人の権力を拡大することが目的なのです。力関係の均衡は白人の権力拡大闘争とぶつかることでしか実現しません。

 そんな雑な運動では均衡が達成されないことは明白です。それは資本家対労働者でも男対女でもあらゆる構図に言えることです。等しくない力関係は暴動を産みます。小さな格差は小さな暴動しか生まないかもしれませんが、それは権力拡大闘争ではないという前提のもとであるし、格差は格差を生むのです。それが権力拡大闘争である限り暴動は終わることはないでしょう。

 

然しながら理想がどうだろうが現実に起きているのはただの権力拡大闘争にすぎないので、今回の問題については、静観しつつ、同時に絶望していきます。