オブジェクト指向とNullpointer Exception

こんにちははてなに入社しました321です、という嘘をエイプリルフールにやろうと思ったけど弊社(はてなではない)が大変なことになっててそれどころじゃなかったのでやめました。来年こそ入社します。

 

別に大変なことにはなってるのでそれどころじゃないのですが、javaの話をさせてください。一つ言っておくとエッセイであって技術書の類ではないです。

 javaに限った話ではないと思いますが、javaといえばオブジェクト指向、みたいな節あると思います。というか自然に記述するとオブジェクト指向になっちゃうと思うのですが、現実そうはいかない。

 単に能力が低いとか、他のフレームワークとの兼ね合いとかまあ色々あってオブジェクト指向ライクでない構成になってしまう。

 

 今回はそういう政治的な話ではなく単純な話をします。

 オブジェクト指向は簡単に言うと、どういう情報を保持していて、それをどのように扱うかを同じ場所に書こうよ。という話です。

 余りにも普通のことなので普通にやると実現してしまうのですが諸般の理由で出来ないことがあります。

そのうちの一つがNullpointerExceptionです。

オブジェクト指向だと

オブジェクト.メソッド()

と言う形で記述されるかと思います。

オブジェクトが保持している情報をオブジェクトに属したメソッドを用いて処理をするというごく普通の処理なんですが、問題があります。それはNull pointer exceptionが出るという問題です。

問題なのはNullなのに処理が継続されてることでは?それはそうだが……

ただ処理を継続させてしまうアホは次のように考えます。

 

オブジェクト.メソッド()

を呼ぶ前にNullチェックすればいいのでは?

 

if(オブジェクト!=Null)オブジェクト.メソッド

 

オブジェクトがNullの時の処理がないやん、それはそうだがアホなんで……

こうしてアホな状態を拡大させると全ての場所でNullチェックする羽目になります

するとアホはこう考えました

いろんなところで同じ処理がなされているので共通化したい

ただオブジェクトがNullだから落ちてるのでオブジェクトの中に書くわけにはいきません。切羽詰まったアホはこう書きます

ユーティリティクラス.メソッド(データ)

ユーティリティクラスにメソッドを書いておいてそこにデータを流し込みます。

これならユーティリティクラスはスタティックでいいのでNullになることはありません。データの中身もメソッド内でNullチェックすれば良くなりました。

 

 

良かったですね。レストインピース、オブジェクト指向プログラミング。

 

どうしたらよかったのか

まずNullチェックやめろ。必要になってる時点でバグだろ

初期化時点でNullセットするのやめろ

処理に失敗したらNull返すのやめろ!

なんかこう、optionalとかあるだろ!知らんけど

変なやつであることへの恐怖

先日の弁論大会、五月祭記念弁論大会で、審査員はこのように評した。

 

弁士も、聴衆でさえ、皆スーツを着ている。昔はこうでなかった。皆と同じであろうとしているのではないか。社会を変えるのは皆と異なる者である。

 

概ね同意するところである。しかし、社会を変えるのは我々異常者ではない。少なくとも平時においては異常者に社会を変える力などないのである。社会を変えるのは常に権力者である。その権力の在り方はそれぞれとしても、何か社会に行使する力を持つ者にしか社会を変えることはできない。

だからこそ我々は弁論を行う。演壇に立つ。聴衆にのぞむ。権力ある者を説得し、考えを改めさせ、そうして社会が変わらんことを、と。

私は服装で減点を受けたことがあった。無論、服装は実のところ関係なく、その審査員のある種馬鹿にした振る舞いを馬鹿にし返したことで機嫌を損ねたのかもしれない。権力者の機嫌を損ねるのは公共の福祉に関わる。説得の可否に関わるのである。

だから、スーツを着ろと言われればスーツを着なければならないし、スーツを脱げと言われれば、また別の服装にならなければならない。

この在り方は望ましくないとは理解しつつも、されど、力なき者にとって選択しない訳にはいかない。

だからこそ、女を出せと言われれば、女を出さねばならないのである。

 

私は、変なやつだという評価が恐ろしくてならない。時としてそれは数ある中から選ばれる理由にもなりうるが、同時に門前払いの理由になりうる。

 

○○ワールドと評価されるのは一見して独自の価値観を評価されるようにも見えるが、その実、世界を分ち、結界を張り、対話を拒絶しているに過ぎないのである。

対話せんとする時に最も陥りたくない状況である。

やっと総括できる話

弁論弁論の話。

弁論は何ではないのかについて。

弁論はレポートではない。まして論文でもない。

弁論が扱う現状を追認してはいけない。必ずその在り方を否定して、より望ましい在り方について示さなければならない。この在り方は提示されていることが重要であり、それが実現可能であるかは些細な問題である。その在り方が瞬間的在り方として具体的かつ自家撞着なく提示されていることが望ましいが、そうでなくとも聴衆にとってそれと確かに連想しうる像があれば十分である。

 

弁士はただ理想を語り、その在り方を示し、それが現状とは異なることを示すだけで良い。それが出来ない弁士がリソースを語る必然性はない。

 

現在的に実現可能かつ実現が望まれている在り方は現状の他にない。また、将来的に可能になるかどうかは誰も論理的に導き出すことはできない。

弁士はただここではないどこか、己が理想像を示す他にすべきことはなく、それのみがすべきことである

そういえば、事前に原稿晒しておく奴をやっておきます

あまり意味ないんですけど、原稿事前に出来た奴の特権ですよね

ただ、多分僕はこれとは違うことを口走ると思います

"期待する" この文化いいですよね。

同じ場所で、同じ言葉を、同じタイミングで叫ぶ。

これほど気持ちのよいことはありません。

入部して何度と聞いたか分からないこの言葉ですが、僕にはずっと疑問に思うことがあります。

何を期待するのでしょうか。聴衆は一体何を期待して、弁論を聴きにわざわざこの会場に来るというのでしょうか。

 

期待される弁論とは何でしょうか。

弁士が出てくる度二回も、1日に20回も皆さんは、期待する!と叫んでる訳ですから差し迫った願いがあって然るべきです。

こういうときは、当事者に聞いてみるのが一番です。

ですから聞いたことがあります。「あなたは何を期待する?」

「新しさ」でした。回答者の多くは新しさ、新規性を期待していました。

ところで弁論における新しさとはなんでしょうか。

例えば、弁士の口からウクライナの状況が述べられたとして、それはNEWS番組でアナウンサーの口から発せられるそれより新しくあることは出来ないでしょう。

弁論が提示しうる新しさとは何でしょうか。

何故新しいことを期待するのでしょう。

そもそも弁論とは一体何なんでしょうか。

 

知らない人に「弁論とは何か」を説明するとき、スピーチみたいなもの、みたいな説明をしますが、

「それはスピーチであって弁論ではない!」とおっしゃる方もいらっしゃいます。

弊部では、弁論を「自らの弁舌や身振りを用いて説得を試みる営み。」と表現されることが多いです。

説得というのはつまり、聴衆の考えとその行動を変えることですが、その行動の変化によって、弁士の目的を達成する、例えば社会を変えようとする狙いがあるわけです。

言い換えると、弁論とは、ある目的を達成する為、人に行動を変えてもらうように何かを言う行為全般を指す訳です。我々が弁論と聞いて思い浮かべるには余りにも広すぎる定義です。

「ちょっと醤油とって」これも弁論になるかもしれません。

 

我々人類が扱う言論の在り方の殆どを包括している定義ですが、今回話したいのはもっと狭いここ、弁論大会、更に言えば“学生”弁論大会で行われる弁論です。

我々が弁論と聞いて思い浮かべるものは、弁論大会で行う弁論はもっと幅が狭くて、

「本弁論の目的は」「解決策を2点提示します」といったお決まりの文句が登場するアレ、ですよね。

話す内容は政治的で例えば、どこかに困ってる人がいて、そのためにパイを多めに分けてほしい。

こんなに困ってるのはこういう背景があるからで、こういう仕組みがあれば解決するんじゃないか。

 

そういうのが我々がいう「弁論」ですよね。

これの話をしたいんですが、この我々のいう弁論をうまく説明する言葉をついぞ見つけることは出来ませんでした。

 

期待される弁論とは、弁論の新しさとは何かを論じるにあたって、こういう声をよく聴きます。

出てくる弁論が金太郎飴のようにどれも同じ展開でつまらない!

ようするに話の展開の仕方が新しくないということですが、これは弁論の本質ではないし、我々が期待する新しさではない。

 

話の展開にテンプレがあって、それに沿って話すことは別に悪い事ではありません。作るのもそうですが聞く方もストレスなく聞くことができます。ストレスなく聞けるならより多くの情報を伝えることが出来ます。

よく、“展開が予想出来てしまう”というデメリットを言う人もいますが、話が早くていいじゃないですか。もしそれが問題になるなら、それはその中身が期待外れだった時だけです。

 

ただ、テンプレに沿った弁論の多くが期待外れになってしまいます。何故か。

 

「テンプレに当てはめる」という作業で捨てられた何かがあったはずだ。

付け加えられた要素があったはずだ。

 

それが弁論に期待されているものなのか、考えることなく機械的に当てはめてるんじゃないのか。

審査員ウケがいいからやってるだけなんじゃないのか。

別に審査員が点数付けたからって説得力が高いことを意味しない。

ただ採点したら点が高かっただけだ。説得的だなあって思った審査員が今まで何をした?

冒頭に言ったな?行動を変えるところまでが説得だ。

行動を変えた審査員がいたか?

高い点数が付いたのは説得されたからではないだろう。

説得するための弁論を作るためのひな形は、説得力と似て非なる観点で評価され、淘汰される。

 

そら審査員も審査員だ。

勿論審査員には審査員の事情があることは分かってる。それでも、説得とは何か、弁論はどうあるべきかについては考えておこなってほしい。

もし、弁論がどうあるべきかを考えていたならば、ただ自分と問題意識が似ていただけのものを評価することはない。

以前から関心を持っていたテーマを取り扱っただけの弁論で審査員は説得されたのではない。

共感しただけだ。

共感は説得ではない。聴衆の考えは変わらないし、行動も変化しない。

 

目的を見失うな

 

 

なんで弁論やってんだ。

賞が欲しいのか?

先輩にやれって言われたからやってんのか?

弁論ってそういう物じゃないだろう

説得したい何かがあったんじゃないのか?

変えたい社会があったんじゃないのか?

それで社会が変わると思ってるのか?

 

或る時、訓練本質説という考え方が提唱された。

“”“こんな小さな場所で何言っても社会は変わらない。

だから今やってんのはあくまでも練習だ。

いつか来る本番の為に、爪を研いでいるのだ。“”“

 

理屈は分かる。いずれにせよ、このままじゃ力不足で、訓練は必要だろうとは思う。

だけど、訓練だからと言って、説得をしようとしないのはナンセンスだ。

説得する力がないのは別にいい。これから身に着ければいい。

だが、俺が本当に危惧しているのは説得することや、説得する意志がないことだ。

聴衆の考えや行動を変えてまで実現したい何かがないんだったら、演壇を降りろ。

自分の為に自己成長したいだけだったら、壁にでも喋ってろ。話はうまくなるだろうよ。

 

わざわざ、人前にたって、弁論をするのなら、その人を変えようとしろ。

その先にある、社会への影響を考えろ。

目的は達成されないかもしれない。

でも、弁士には演壇に立つ以上、目的を達成しようとする意志を持て。

 

聴衆が期待してるのはココなんじゃないかと思う。

弁士が弁論を通じて実現したい社会の在り方を知りたい。

変えたい物は別に社会でもなんでもいい。

ただ、本当に弁士に変える気がある、そう思わせてほしいんだ。

 

訓練本質説を否定すると別の疑問が出てくる。

本当に変える気があるなら、こんなところで弁論してる場合なのか。

弁論以外にも言論の場はある。説得を試みる場ならいくらでもあるんじゃないのか。

なぜこんなちっぽけな会場で喋っているのか。

Youtubeだかで雑談配信している方が人は大勢くるし、

賛同者を集めて署名運動なりなんなりしたり、直接政治家に訴えた方が実現は早いだろう。

何故それらをせず、こんなすぐ揚げ足とって騒ぐ、話の邪魔にしかならない連中相手に喋っているのか。

 

そういう疑問は前から行われており、Youtuberになってみたり、街頭演説してみたり、noteをやってみたりと、いろいろやっているのを傍からみて言えることは、

まずこの会場はちっぽけでもなんでもないということです。

この会場はその問題を解決に導くには少し力不足かもしれませんが、他のそれらと比較すれば十分大きい。

ただ、我々が無力なだけだ。

発信力がないだけじゃない。

ただのイチ学生には知恵も知識も能力も足りていない。

それでも変えたい未来がある。

ただ、現状を変えることは出来ない。

私たちに現状を変えることが出来たのであれば、他の人が既にやっているはずだ。

現状に現実的な解決策を示す弁士は、それはそれで優秀だが、

そのような解決策は実は実行不可能か、既にやっているか、

政治的に圧力を加えれば実現するかのいずれかである。

実行不能ならその話に価値はないし、既にやっているならこれもまた無意味だ。

政治的に圧力を加えれば実現するのであれば、今すぐに団体を立ち上げればよい。

演壇から降りてすぐ署名を集めるのではないのであれば、現状を語ることに意味があるとは思えない。

そういう意味では、現状分析は無意味だ。

未来を語らなければならない。

常に変化し続けるこの社会に現状分析はどれほど未来の分析に通用するだろうか。

常に変わりゆく未来のその先を見据えて弁論をしなければならない。

 

常に知識も行動力も我々にアドバンテージを持つ政府主体に先回りをしなければならない。

データとかエビデンスとか言ってる場合だろうか?

何かの後追いをしている程暇じゃない。

状況は刻一刻と変化する。

どこにデータがあるというのか。

 

その上で、弁士は霊視をしたその未来を否定しなければならない。その未来が来ることを拒絶し、回避するための策を提示しなければならない。

予想された未来が受け入れられるものであれば、わざわざ弁論などしなくてもよい。

予想された未来と弁士が実現させたい未来との差異を埋める何かが解決策だ。

 

ただ、問題は、この解決策は明らかに正しいものでは決してない。

弁士の思い込みによって立脚されなければならない。

この思い込みこそが、私の考える聴衆が期待する「新しさ」の本質であり、源流である。

何か外部に支えられた確からしいものであってはならない。

 

だから、聴衆は野次を飛ばさなければならない。

揚げ足取りになってでも、時に非倫理的になってでも、自分の立場とは異なる立場からでも。

野次を飛ばし続けなければならない。

その野次こそが弁論の確からしさの唯一の支えとなるのだから。

 

 

 

弁士は、予測した未来を否定して、望む未来を叶える為に、その道筋を示す者である。

聴衆はその道筋が幻ではないかと常に疑い続けなければならない。

だから野次を飛ばす、質疑する。誤った弁論に説得されないように。隣の奴がほだされないように。

 

これから来る新入生の弁士と聴衆たちに期待する。

 

『現実主義勇者の王国再建記』で何故港を作ろうとしたのだろうか。

ただの疑問だが。

 

 放映中の『現実主義勇者の王国再建記』では、勇者は食料不足の解決を中心として話が進められている。7話では、勇者は首都の近くに港湾都市を建てようとするのだが、これも食料不足解決の手段として行っている。ところで、港湾都市を建てることが本当に食料不足問題に対して意義のある行為なのかという疑問が本稿の主題である。

 

 勇者はそれまでにもいくつかの策が行われていたので、王国並びに世界の現状とともに紹介したいと思う。

 世界の温暖な地域では魔物の侵攻が進んでいる。そこでは綿花が栽培されており、魔物による侵攻の影響で綿花の供給が減少、価格が高騰していた。王国内農家の多くは利益の為綿花への転作が進んでいた。食料の輸入に頼る割合が高まる中、他国でも転作が進んだ為、食料の輸入が出来なくなっていた。

 ここで勇者は、綿花から食料への転作を進めた。同時に王国によって食料の一括買い上げ・廉価での販売を行った。また、転作には時間がかかるため、それまで食用とみなされてこなかった食料とそのレシピを広めることで直近の食料不足を緩和させた。

 

 以上の施策を済ませたうえで港を立てる計画を打ち出した。その意図は作中で勇者が語っている。

 転作の効果が現れるのは時間がかかる。それまではやはり供給不足の状況が続く。そこで割合食料の余っている地域から足りていない地域への食料の融通が出来る様にすれば、安価な価格で安定して供給出来る(この理屈を需給曲線を用いて示している)。だから陸路・海路を連携した港湾都市を建設せねばならないという寸法です。

 

 と説明してきた中でも、気になる点が3つあります。

 

 まず一つ目ですが、転作の効果が出てくる前にこの港湾都市の効果を得ようとしていますが、間に合うでしょうか。この世界には土木工事に適した魔法が存在するとは言え、作物が育つよりも早く都市を建設することは可能でしょうか。例えばトヨタのウーヴンシティは建設予定としては4年程掛かる見込みです。都市の規模や技術レベルにもよりますが、すぐに終わらせられる物ではないでしょう。また、作中では当初の予定地に津波の危険性ありと判断し場所を変更しています。また同時に盛り土や避難経路の設定など更に工数が増えています。また、都市が建設出来れば良い訳ではなく、実際に交易が成功するまで時間が掛かります。

 対して作物が育つ期間ですが、植え付けから収穫まで3ヶ月から半年(特にソースはなく感覚で設定しています)と見れば、適切な季節を待つとしても一年半程度で収穫は終わるでしょう。比較すれば都市建設はかなり長期的な政策であると言って良いでしょう。

 この世界は我々の世界と異なる為一年の長さなど、一概に論ずることは出来ませんが、綿花が出てくるなど類似性も見受けられるので、作中で説明される部分以外は概ね同じと見ていいでしょう。

 

 そして二つ目ですが、比較的食料が余っている地域は存在するのか、存在したとしてそれを知っているのか。そこから食料を持ってくることは可能なのか。という点です。勿論既に新たなレシピの広告により、比較的食料が余っている場所はあるかもしれませんが、それらは自分で食べるために用意したであろうものであるし、食べ切れないほどあるかというと疑問が残ります。三つ目の疑問点にも関わりますが、食べきれない分は既に交易されているように感じられます。

 

 最後に三つ目ですが、そもそも流通は今まで整備されていなかったのでしょうか。一度今回の食糧危機の原因に戻ってみます。

 温暖な地域での綿花栽培が不可能になった為、自国で栽培し利益を上げていたところ、他国でも綿花が栽培され値崩れ。食料も高騰し輸入できなくなった。

 この現象が起きるには他国との貿易が可能であり、かつそれが円滑である必要があります。

 勿論そこまで円滑でなくとも食糧危機は起きうるでしょう。例えばモノカルチャーで、多くの財が輸入で賄われていたが政治的な理由により貿易停止、或いは病により植物が全滅などです。このような事態であれば転作が長期間に亘り進行し、ある瞬間に貿易不可能になった。ということがあり得ます。

 しかし今回はそうではない。魔物の進行に乗じて利益を得ようとした者が多く出てその結果綿花価格が暴落したと見ることが出来ます。このような行動に出た農家の考えを想像すれば、「綿花を栽培し売り抜くことができ、食物を購入することが出来るだろう」と考えていたと理解することが出来ます。かなり貿易の存在が国民の意識に浸透していることが分かります。

 農家が食料を買うことができると考えるのは極めて流通が整備された証左と言えるでしょう。例えば税としての農村から都市への一方的な食料の移動であれば、途中でまとめて1箇所に集めるので、そこまでの流通能力は必要ないかもしれませんが、農村に対して食料を運ぶということは農村から農村への移動が想定されることになります。今回は国外→各農村の流通経路を持っていることを意味しています。それも商品作物を売って自分の食い扶持を購入する程度の太さを持っていると言えます。

 実は王国には既に港が存在しているのですが、そこから各農村への流通があるのでしょう。そのように考えると、港を新たに建設することによって、流通に与える影響はどれほどのものかと考えれば既存の港との交易ができるくらいであろうといえるでしょう。

 

 このように考えていくと、港の建設の効果については疑問が残る部分があります。勿論長期的な効果は確実にあるでしょう。しかし、隋の煬帝が建設した運河が唐の時代に効果を発揮したように、現在の国を再建するには些か長い視点すぎるようにも思えます。勿論この作品にそこまでの細かさを求めてはいけないという意見も分かりますが、現実主義と銘打っているのですから、今後の展開に期待します。

転売屋は経済学的に善なのか

市場原理についてよく考えると、転売屋の存在は明らかに前提とされているし、存在しないと成立しないように思える。転売屋は経済学的には善なのか?最終的に場合分けして論じていく。

ここでは転売屋を「ある市場で購入した財を別の市場で売ることで差額を得る者」としておく。

あらゆる商人がこの定義に当てはまっているが、当人のしていること自体本質的には変わらないというのが私の考えである。

転売屋が扱う財は主に以下の条件を満たす。

  1. 供給が独占状態にある(1社によってのみ供給される)
  2. 価格が変動しない(提示する価格によって優先されることがない)
  3. 全員が購入出来るわけではない(順番待ちや抽選による)

何故多くの商人と異なり、転売屋が忌み嫌われるのか、転売屋を利用する者が現れ利益が生まれるのかがこの財の性質にある。

転売屋がいない状態について考えてみると、既に市場が失敗していたことが分かる。現状を、転売分は売り切れていてかつ、定価で買いたくとも買えない人が存在していると仮定すると、定価以上で買いたい人に対して財の量が少なく、その場合量を増やすか価格を上げるべきなのだが、そうなっていない。(この点は供給側の理念や経営上不可避な要素が関わるので是非は問わない)

このような市場に転売屋が介入した時、単純により財を欲しがる=より高い価格で購入したがる人の手に渡らせているという意味で経済学が目指す状態に近づけているので善であると言える。

しかしながら、この時生産者余剰は増えていないにも拘らず、消費者余剰(それぞれの効用から価格を引いた分の合計)が減少している点を問題視している者も多い。とはいえこの点は、他の商人による行為にも同様に言えることであって、問題の本質ではないだろう。

では、問題の本質はどこなのか?

冒頭に転売屋は2市場の価格の差から利益を得る者と定義したが、この2市場の異なり方にも種類がある。大きく分けて2種類である。

  1. 空間的キョリが大きい2市場
  2. 時間的キョリが大きい2市場

1については、多くの商人が行うそれがこれに当てはまる。生産が盛んな場所から消費が盛んな場所へ運ぶ行為は、2点の需給バランスを安定させる効果があり、同時に多くの供給を産んでいる。転売屋が行う、特定の地点でのみ販売された財をネットオークションなどの場所で売る行為も原理的にはこれに当てはまる。現地に赴いて並んで購入したり抽選を当てることを委託しているという意味で我々が工場へ製品を取りに行かないことと類似している。

問題は2の時間的キョリのある2市場の価格差を狙う転売屋である。具体的には、今日の価格より明日の価格の方が高いと感じたときその財を売らずに保持しておく、といった2時点の価格差から利益を得ようとすることを指す。これは一般の商人にも言えることで、例えばコメは秋に収穫され他の季節には収穫されない。そのまま供給すると秋は供給過多で価格は低下し、それ以外は供給がなく価格は暴騰する。時間的価格差を目的とした保持はこのコメの価格差を均し、供給を安定させる。これ自体は悪質なものではない。

ここにある問題点は、価格上昇を期待することによる需要の増加が起こると、需要過多により価格上昇を起こすことにある。そして価格上昇が進めば保持し続けるインセンティブが働く。供給が減少すれば価格は上昇する。この循環が起きれば価格は急騰する。転売屋の時間的キョリのある市場の価格差から利益を求める行為はそれ自体が価格差を産むことが最も大きな問題点である。

転売屋が忌み嫌われる理由は買い占めではない。その後保持することにこそあると言って良い。保持するから価格が上がる。価格が上がるから買い占め保持する。

注釈として、1の空間的キョリのある2市場についても、厳密には時間的キョリがあるのだが、一般にこのキョリは商人がこれを不確定性や費用としてみる場合は考慮しないこととする。この際先の価格高騰の連鎖は起きない。

 

このように考えてみると一般に転売屋と言われる物ではないものも転売としての悪質さを持ち合わせることがある。例えば金融商品が挙げられる。日本市場で購入しアメリカ市場で売るといったことは想定せず将来空間的に同一の市場に売ることで差額を得ようとしている。実物商品であっても、例えば土地など、値上がりを期待して保持する場合も同様のことが言える。これらは保持し続けることで利益を産むことが悪質である点であると言って良い。彼らが財に対して値上がり以外の効用が得られないのならば、ただコストが掛かっているだけであり経済学的な観点から善である訳ではないということができる。

そう考えると、買ってすぐ売る行為は目の敵にされがちではあるが実は全体としての損失はそこまで大きいものではないのである。

スパチャ読みと振り込めない詐欺

 この話を自分でしなければならないほど私がこの話と身近でもないし新しい話でもないのだが、自分自身、貨幣経済の代わりとして感謝経済なるものを提言する身ではあるから、いつか文章化しておきたい話であった。スパチャ読みの文化である。

 

 Youtubeにはスーパーチャットなる機能(以下スパチャ)が存在している。スパチャとは生配信の有料のコメントで、値段に応じて目立ち方が変わる。人気Youtuberの生配信のコメントの流れは異常に速い為、一瞬で流れてしまうか或いは見えないこともある。そういう意味ではYoutube Premiumと同様のYoutubeというサービスに対して支払うのと同じものだと言える。ただし異なる点もあり、特筆すべきは高額配信者に対して直接、高額(一つのコメントにつき最大5万円)なお金を渡す点である。

 勿論直接と言っても先述のYoutubeに対する支払いという意味もあり、全額配信者にわたる訳ではないが、広告を見たりするといった間接的な方法ではなく直接的にお金を渡すことが出来る。渡してどうなんの?と聞かれたらコメントが目立って配信者に読んでもらいやすくなる(かもしれない)だけである。支払額に対してあまりにも見返りが少なく感じられるから、我々スパチャをしない者からしてみれば、たかがコメントを目立たせるために1万円も支払うような連中は狂人であるかのように見える。

実際配信者にもそのように見えるからか、個人個人で対応は異なるものの、「スパチャ読み」という行動をするようになっている。スパチャ読みというのは文字通りスパチャの本文を読んだり、名前を呼んで感謝するコーナーである。狂ったようにスパチャを投げる人がいるのは「スパチャ読み」があるからという側面があるというのも事実なようで、「スパチャ読み」をしない配信者に「スパチャ読み」をしてほしい旨を伝える視聴者もいるらしい。

 

 ここで本題なのだが、このスパチャに掛かる金額とそれに対する対価が見合わないのではないかという言説をよく耳にする。当然スパチャする人がそれを言うのならばやめればそれでおしまいなのだが、この言説は特に外野からなされるのが大半である。これはスパチャが外からその消費行動が丸見えになっているからという側面があるのだが、兎に角何故外野が口を出したくなるほどに貧相なお返しに対価を支払う人がいるのかという問いが今回の本題だ。勿論、当たり前の話として本人の収入や趣味嗜好によって感じ方は変わるのだがそれ以外の要因の話である。

 そもそも、スパチャに対してのお返しが目立ったコメントやスパチャ読みであるのではない。スパチャそのものがお返しなのである。つまりスパチャをしている人は何か商品を受け取って後払いの方法としてスパチャをしているに過ぎないということである。その商品というのがそのスパチャが流れている生配信そのものである。勿論スパチャをしたからといって、していない者とは何か異なる配信を観れるという訳ではなく、全く同じなのだが、とにかく当の本人は支払う必要性を感じ実際に支払ったのである。

 分かりやすい例えをするとしたら昔話の笠地蔵や鶴の恩返しなどそうだろう。別に求められてもない支払いなど踏み倒せばいいのだが、本人の良心がそれを許さない。だからお礼をする。お礼をしたいからお礼をする。自分の羽を抜いて機織をするのと大金を出してスパチャをするのは本質的に同じであるといってよい。そのように考えれば、対価が小さすぎると考えるのは不自然であるといえる。配信の手間暇や配信を観た喜びを考えれば、支払いたくなる気持ちも少しは分かるだろう。勿論支払いたくはない気持ちも分かるのだが。

だから彼らはスパチャをする為にスパチャをしているのであって、スパチャをした時点で最早済んだことなのである。済んだあとスパチャ読みは買い物をしたあとに掛けられる挨拶と同じなのである。だから、挨拶をするのは結構だし挨拶をしてほしいと思うのは結構だが、それについて騒いだり返金を求めたり不買運動するのは個人的に見苦しいからやめたらどうだろう等と思うのである。

 ネット界隈には「振り込めない詐欺」という言葉がある。まさに頼まれてもいないのにお金を払わせろという謎の主張を表す語句であるが、ネット界隈にも「振り込める詐欺」が浸透しつつあるあるのは大変興味深いものであると思う。