経済学では登場する人の特徴を経済人であるとしている。
経済人とは持っているモノを最大限に有効活用して、最高に幸福になる選択をしていく人のことを言う。
経済学がまず最初に直面しうる批判点と言えばこの、現実の人はそんなに合理的に動けないよね、である。
確かに現実の人の行動には無駄が多い。
では何故この違いが起きたのか。
答えはモデルが簡単過ぎるからである。
決して現実の人が合理的に動くことが出来ない訳ではないことを主張する。
現実の人は経済学が置く条件よりも複雑な条件の元で幸福を最大化している。
経済学の想定する持っているモノとは、物理的なモノに加え、知的財産や金、時間も含まれる概念である。
が、これらを使って幸福を最大化する過程で必要な、思考力や知識を経済学は無限に所持しているという前提を置いてしまっている。
ここが現実と大きくかけ離れている。
将棋を指すとき、例え竜王でさえも想定しうる全ての手を考慮に入れているわけではない。
人は自分の一挙手一投足がどんな結果をもたらすのかを知らない。
現実には有限な資源を無限資源として扱ってしまっている点が経済人と現実の人を異ならしめている点である。
現実の人は、どのくらい思考すれば幸福を最大化出来るのか"思考"する必要がある。その"思考"も幸福を最大化する為にどのくらい"思考"すればいいのか""思考""する必要が出てきてしまう。このようなメタ的な思考の層の頂点には全く思考しない層が存在する。
このような条件のもと、思考せず合理的な選択を取る為に予め何をするのかを決めてしまうという戦略を合理的にとっている。
要はランダムに行動を決めてしまい、結果的に合理的であった人が生き残るという進化論的な淘汰によって、合理的な選択をしてきている。
では今生きているがそこまで合理的でない選択をしているので子孫は残さず死に行く人は合理的ではないのかというとそうではない。そのような個体が生まれることすら、進化論的経済人の合理的選択の想定内である。
と、考えていくと、人はどうあがいても経済人(合理的な選択が出来るもの)であり、更に一般化して言ってしまえば全ての生物は経済人であると言える。
経済人は後悔しないというのはよく言う話ではあるが、誠に合理的な選択をする上では後悔とは必要不可欠なことである。考えなしに選択し、結果が喜ばしいものでなければ、次はその結果をもとに選択する。そちらの方が選択コストで言えば安上がりであるといえる。
単純に初等経済学ではモデルが単純であるために現実と動きが異なるだけで、それは経済学が無用の長物である証明にはならないし、
経済学の考える合理的選択と現実の人の選択が異なるからと言って現実の人は合理的ではないとするのも暴論であるといえる。