経済学が机上の空論であるたった一つの理由

こんにちは、経済学科の学生です。

経済学というのは、実学のような風体なのに使えない学問と言われたりします。

何故使えないのでしょうか。厳密に予測出来ずとも、指針にはなり得るのではないでしょうか。

 

勿論沢山の理由はあるのですが、根本的な理由としてはやはり一つに絞られていきます

 

経済学が前提に置いている人物像が有り得ないから。

 

経済学が前提に置く人物像は経済人と呼ばれます。

 

経済人とは「自らの幸福度を最大化する為に手持ちの資源を最大限活用する人」と定義することが出来ます。

 

ここで問題となるのが手持ちの資源に含まれない物がある。

思考資源です。

 

経済人は手持ちの資源をどのように配分するかを決めるにあたっては無限に悩み続けることが出来ます。

 

しかし現実の人間は度々決断に迫られます。1日、いや一分一秒と待ってはくれません。

思考資源は有限なのです。

 

経済学は如何に有限な資源を有効活用するかが主眼に置かれます。

それにも拘らず有限である思考資源を無限のものとしてしまっていた。

そこが経済学を机上の空論たらしめていた要因だったのです。

 

 

 

ところで、思考は有限であると認識を改めて世界を眺めていると気付けることがあります。

 

この世の生きとし生けるものは経済人である。

 

皆思考資源を最大限有効活用している。知性()によって導かれた最強の配分だけが合理的判断ではないのだ。

意味のないように見えても意味はある

功利主義的な視点で(或は其れ以外で)社会を視ると、如何にも非効率な行為が散見される。左様な行為は其れ等を優位にする風潮に依るものである。功利主義的には望ましくないが、利己的には望ましい事が在るのだ。その行為は属する集団の利にはならないものの、属する集団の中で優位に立つ事を可能にする。

 

例えば学歴。学歴を得る為の選考として扱われる受験勉強自体にはなんら社会的利益はない(要出典)。大学ないし教育機関内で行われる勉学も社会的利益もない。実際学校で習った事など実社会で役には立たないと宣う人の多い事。勿論この背景には彼等のバイアスに問題が在ると主張は出来るが、ここで主張したいのはそのように利益にならないとしても彼等は学歴を得た事を後悔はしないだろうという事だ。彼等は左様な現状に無力感を覚えたとしても学歴を得た事に依る利益は甘受出来ているからである。

 

このように全体としてなんら利にならない行為でも個人として利になる行為が在るのは確かで、其れ等を可能にする効果をシグナリング効果と呼んでいる。

 

このような無駄な行為をしているのに平然としているということはそれだけ有能で人的資源を有しているということだ。

或る人の詳細な情報を持たない時、其の人の評価をしたい時は以上の判断をする事が在る。

当然其のような評価がされたければそうする他ないのだが、社会的視点からすればこれは無くさねばならないことである。

 

解決する方法は3つほどある

1.十分な情報を与える

2.抑も評価をさせない

3.見なかったことにする

 

十分な情報があれば其のような判断はしない。が、出来ればやっているので無理である。

抽選のような方法を取らせればシグナリング効果は失われるが自由の原則に反するとして実現不能だろう。

 

確かにシグナリングがもたらす不経済は莫大だが、無くすコストと照らし合わせると大したコストではないかもしれない。

意味のないように見えても意味はあったのだ。

選ばれた者にしか弁論が出来ない理由

弁論とは、何か解決されない社会問題に対して、演説を行うことで解決に導こうとする行為のことである。

社会問題とは、ある集団にとって改善されねばならない事柄のことである。

 

社会問題は2つに大別できる。「どうでもいい(とされる)事」と「どうにもならない(とされる)事」である。

 

特に今回の主張では排反である事は示さなくても良いが、排反であるという事は出来る。どうでもいい且つどうにもならなき事は深刻性も実現性も乏しく抑も問題として認識され得ないからだ。(勿論認識されないだけで問題として存在はする。日吉杯ではこの手の弁論をしている。)

 

どうでもは良くない且つどうにかなる問題は存在しない。そのような問題が有れば積極的に解決され、既にこの世に存在しない問題だからだ。従って一瞬そのような問題は存在しうるが、時が解決するので我々は何も出来ない。

 

どうでもいい事は先のどうでもは良くない事より後回しになるので問題は依然残ってしまう

どうにもならない事は当然問題として残る。

 

従って「どうでもいい事」か「どうにもならない事」がある。

本当にどうでもいいかどうにもならない場合は我々は何もする事は出来ない。何を主張しようとも空振りに終わる。

 

従って社会的にどうでも良いかどうにもならないと思われていた事が、実はどうでも良くなくどうにかなる時にのみ、我々は弁論をする事が出来る。

 

つまり、ある問題について社会が認識していなかった深刻性か実現性の高い解決策を見つけて示さねばならない。

 

然し乍ら凡人は社会と同じ見方をしている。

従って弁論は選ばれた者にしか出来ないのだ。

 

とはいえ、凡人にも実のところ弁論は出来る。というのも、社会の構成者は同じ視点を持っている訳ではなく、差異が存在しているからだ。

凡人は知られていない超人の言説をどうにかして見つけ出しそれを広めることは辛うじて出来る。

 

弁論は一部にのみ知られていた事を広める行為にしか過ぎない。その一部が弁士であった必要性はない。

 

どちらにせよ難しいことには変わらないのだが。

春秋杯の奴、原稿が完成したけど選考会も始まらないので適当に投げる

投げるだけ投げるけどあんまり対策はしてほしくないなと思いながら聞いて回って全員ノーコメントも面白くないので

演題:戦え!何を!?弁論を!

 

(期待する―!)

何を?

何を弁士に期待しているのですか?

貴方は何故!何故あなたはそんなバカみたいな声をあげて期待する!なんて言っているんですか?

皆さんは弁論に何を求めているのでしょうか?

聞いてみましょうか

 

(演壇を降りる)

審査員の皆さんのは審査講評で纏めて聞けるので他の聴衆の方から聞いてみましょう

急に言われても困るでしょうし答えられない方はノーコメントで構いません。

長すぎる場合はこちらから中断させてしまうことをご了承ください。

 

あなたは弁士に何を期待していますか?

(何らかの返答)

(何らかのコメント)

(繰り返し)

 

皆さんありがとうございました。「皆さんが色んな点について期待していたことが分かりました。」しかしながら、聴衆の皆さんからは期待する!としか言われていませんでした。我々弁士は勝手な話ですが、こういう弁論を期待しているだろうと思い込んで自分がやりたい弁論とは違う弁論をやってしまう。弁士の皆さん、今まで若しくはこれから弁論をやる方は予想していた期待とどのくらい差異がありましたか?

 

私は私が知らなかった話を期待しています。然し弁士は私の知る範囲など知ったことではない。期待に応えるすべはない。期待に応えられるなど期待すべきではない。だったら最初から言いたいことを言えばいい。

 

演題の「戦え!何を!?弁論を!」は、1992年にロックバンド筋肉少女帯が発表した曲「戦え!何を!?人生を!」が元になっています。

その冒頭の歌詞には、「才能の枯れた奴がいた。彼の人生は退屈だった」とあります。

弁論界隈には才能溢れる人が多くいました。

しかし、聴衆の期待に押しつぶされ才能を枯らしてしまった。

そうなると彼らの弁論は退屈になってしまいます。

 

期待に負けず、貴方が言いたいことを言ってほしい。

全ての弁士に期待する。

 

戦え!(何を!?)弁論を!!

無能に優しい世界を

注意 これは愚痴である。時間の無駄だから引き返すように。

 

私は無能である。なんら創造性などなく、それでいて高らかに創造を!創造を!などと謳う。創造力もなければ創造する気力すらない。現にこのブログでウンウン唸ってはいるものの、それを読者に効果的に伝えんとする努力もない。はてな記法とかいうもので書けば文字サイズや色などを指定して分かりやすく目に映える文を作れるのだが、それをやろうとさえしない。私は無能である。創造力のカケラもない。それでいて破壊衝動は人並み以上にある。これは小学生の時点で自覚していて抑えん抑えんとするもその衝動は不意に訪れてしまう。中高の同期方には迷惑をかけた。私など生きていても社会に害であるなどと自死を考えるもそれとて破壊衝動で、社会にとって労働力を削るだけであるなどと思いながら今まで生きている。私は無能である。勿論この世に私だけが無能という訳でもないらしく、私が死ねば有能を前提とした社会で居られるわけでもない。だから私は主張する。無能に優しい社会を!私は無能に優しい大いなる支配者を求めてきた。然しそう大いなる支配者など存在はしない。大いなる支配者なくともマシな社会をまとめねばならない。私はある代表に期待した。この非効率な団体を変える!引き継ぎはする!なんと喜ばしいことだろう。引き継ぎがされれば無能である私が考えるまでもなくその通りすれば良い。然し一向に非効率さは残る。仕方ない。大いなる支配者など存在しなく、目の前にそれがあるなどと期待するだけ無駄である。彼はよくやっているはずだ。理念に誤りはなく、ただ力不足だったに他ならない。はずだった。私は演練補佐を頼まれ、業務に携わった。メーリスの送信を頼まれた。このメーリス、楽々連絡網というソフトウェアを用いて行っているが、これは賛否両論ありラインに統一すべきではという声もある。私はこれは無能に優しくないと言って廃止を提言したが却下されてしまった。送信文を求めたところ提示された春秋杯の募集要項。嗚呼なんと効率的か。もう春秋杯の募集をするとは。そう感心し日付や送信者の名義を変え送信すると翌日訂正文の送信を求められる。変更要求として締め切りが昨年は6/15だったのが4/6になっていた。嗚呼なんと効率的か。それほど早くに募集すれば原稿を練る時間も確保できるというものだ。そこを訂正して送信する。また暫くして訂正要求を戴く。春秋杯ではなく五月杯だと。それもそうか。五月杯の募集をせずに先の募集をするなどと。たしかにこれは気づくべきだったかもしれぬ。私が無能でさえなければ、気付けた問題であろうと。まあこれは仕方ない。引き継ぎが完全ではなく直前であったこともあり、これは致し方ない事故であった。今後十二分な対策を考えていこう。無能は私だけではないのだから。然し事態はそうはならなかった。次の執行部会議のことである。私は書記局長を任されていたので議事録を取ることとなった。そこで渡された初めて見る議事録フォーマット。これを初見で理解して埋めろというのかと驚愕した。無能なわたしには質疑を上から下まで真っ直ぐに書き下ろすのが精一杯だというのに二次元のマスを埋めて行かねばならぬのか。然し議題が空白のまま渡されるとはどういうことか。私は書記をしながら今なんの議題がなされるのか初見で理解し文字に落とし込まねばならぬのか。議題と概要の違いとは何か。結論とは何か。ここに議事録を流し込めば良いのか?それでは限りなく縦長な議事録になるがいいのだろうか?結論から言うと議事は混乱を極めた。挙手せず発言をするし(これは野次として捉えることができ、議事録に残す必要がないとも言えるのだが、野次によって議事が進行してしまっていたので無視ができなかった)、発言が早いのでタイピングが追い付かない。それなので不完全な議事録しか取れなかったので代表に補完してもらわんとしたが、結局完成したのは「○○について ○○について決めよう 決まった」といったもの。私のタイピングを返してくれ。まあそこら辺は次回以降改善されるだろう。然し改善されないのでは?という疑念も残る。議事中に先に述べた私の失態について議事長が述べた。君達は働かなすぎる。私らはろくに引き継ぎなどなくとも自分から調べてやっていたぞと。どうやら現状を改善する気もなければ無能への配慮も考えてないらしい。まあ、一年も接していていれば察するぐらいはできたことだが、こうまで直接的に言われてしまうと悲しいものがある。私は無能である。無能にも優しい世界を求めている。私は無能である。私には世界を変えることなど出来ないだろう。私は無能である。然し、無能でなければ変えようとも思わないのかもしれない。私は理想郷を虚しく追い求める。

日吉杯最終稿

演題『一人多票 ~死に票は議員の持ち票を弄ればなくしうる~』

この中に選挙に行ったことあるよ、という方はどのくらいいらっしゃいますか?
結構いらっしゃいますね。ここにいらっしゃる方は社会問題の解決を目指す方ですから、選挙に行くのも当然かもしれません。
(あまりいらっしゃいませんね。ここにいらっしゃる方は社会問題の解決を目指す方でしょうから選挙に行った方がいいと思いますが。)

選挙は社会問題の解決に至る為の殆ど唯一にして最大の方法です。
利己的な主体の活動では解決できない問題を政府が行う。
国民は政府の舵をとる為に選挙に行きます。
選挙に行かなければ社会問題解決の為のスタートラインにすら立てないのです。

と、言っても選挙に行かない人は行きませんから、行きたくなるような小話を一つ。
選挙に行くと2枚の投票用紙が貰えます。
この紙に候補者の名前を書いて折りたたんで投票箱に入れるのですが、
この紙、箱に入れた後、自然と開くようになっています。
箱に入れる前に紙から手を放すと見れますので是非投票しに行ってみてください。

と、言っても、選挙に行かない理由というのが正にその折りたたんで「投票しても元に戻ってしまうから」なんです。
どういう意味でしょう。
例えば、あなたは選挙に行って、候補者Aに投票しました。
結果候補者Aは当選した。
良かったですね。
では候補者Bに投票していたら?
結果は変わらず、候補者Aの当選でしょう。
選挙に行っても何も変わらないのです。
投票しても、投票してない元の状態に戻ってしまう。
選挙に行く意味がないから行かない。

本弁論の目的はこの無意味な選挙に終止符を打つための解決策・新しい選挙制度の提案・共有です。

現状ある選挙制度ではどうしてもこの問題は解決できなかった。
今まで選挙制度について沢山開発考案はされてきました

例えば小選挙区制 二回投票制 コンドルセ方式 シュルツ方式 ボルダ方式 比例代表制 ドント方式 サン=ラグ方式 単記非移譲式 完全連記制 などなど何十もの選挙制度が考案されてきました。

しかし、いずれにしてもこの”投票しても元に戻ってしまう”問題は解決できませんでした。
では、何故この問題が起きているのか。原因は何でしょう。

投票しても無駄になってしまうという問題は、言い換えればあなたの票が死に票になってしまうということを指します。
ここでは、死に票とは落選者に投票された分と当選者が当選するには必要ではなかった余りの票を指します。
先ほど述べた選挙制度では死に票を小さくすることは出来てもなくすことは出来ません。
でもそれは当然です。
私たちの代表を一人に絞る以上、どのように選んだって死に票は出てきます。
あれ?私達の代表を一人に絞るのは必要なことなんでしょうか?
もし不要だとすれば問題は解決するかもしれません。

そこで解決策を1点提示します。
選挙制度を変えるのです。
当選した議員の議会での持ち票を現在の1票から得票数に変えます。
大枠は以上です。
100万人がその議員に投票したならば、その議員は100万票を持つ。
各議決に100万票を投じていく。
そのような状態においては追加の1票に意味が出てきます。
勿論1票というのは非常に小さなものです。それだけでは当然社会を変えることは出来ない。
しかしながら、今までは我々の投票権は、議員が決まった時点で死に、それぞれの議決までは届かなかった。
その議決まで生きて届かなかった我々の意志を生きて議会まで届けることは確実に大きな意味を持ちます。

では、この制度について、議員の視点からも考えていきましょう。
今までは、当選に十分な支持者を持つ議員はこれ以上何もしてこなかった。
議員生命を守る為には必要なく、無駄だからです。
しかし、この制度のもとでは、そうではない。
さらなる1票が更なる力になるんです。
当選に必要ではなかった少数派の意見を取り入れるインセンティブを持ちます。
議員はより問題解決をしようとするでしょう。
今までは一人を当選させることが出来ない少数派の意見も多数派の議員によって救われうるのです。

勿論この解決策もこれだけでは大きな効果を得ることは出来ません。
そこで2点の修正をします。
1点目は「全国区にする」、2点目は「成り議員代を導入する」。

1点目です、全国区にする。
小選挙区というものは何を意味しているのか考える必要があります。
有権者の票を議員の1票に圧縮する為に区切っていました。
しかし、本政策では1票は圧縮せず1票のままだから区切る必要はありません。

むしろ一票の格差を助長させ、国民を分断するゲリマンダーを発生させてしまう選挙区は廃止してしまうべきです。


2点目です。成り議員代を導入する。
議員の持ち票を得票数とするこの政策では、特に議員となる条件は置かれていません。
しかし、議員が無限にいては議論は混乱を招くでしょう。
どこかで線引きはすべきです。
ですが、人数で線引きしてしまうと、少数派議員を追い出すために所謂クローン議員というものが増えてしまい本政策は最大限効果を発揮することは出来ません。
勿論それは現行よりかはマシですが、高みを目指したいものですね。

そこで成り議員代を導入します。
そこで導入するのが成り議員代です。
議員になるときに、得票数から何票かを支払う。
これを成り議員代と呼んでいます。

この成り議員代を導入すると更なる利点が生まれます。
議員の数を絞ることが出来ます。
議員を一人出すたびに持ち票が減っていきます。
減るぐらいなら最初から立候補させない。
大体同じ考えならば、代表をまとめてしまえば、無駄に、成り議員代を支払わずに済む。
そうすれば影響力をより大きく出来る。
今までは票の為にいる議員がいました
この議員を減らすことが出来るのです。
多数派の政党で起きたことは、少数派の政党でも置き得ます。
少数派の主張同士というのは必ずしも矛盾を引き起こすとは限りません。
ある法案に対して主張はしているが、他はどうでもいいと思っている人達はより自分の影響力を大きくするために結託するでしょう。
このような流れによって議員数は絞られるでしょう。

立候補者が減れば論点は分かりやすく纏まり、議員を選ぶコストは下がります。
さらに立候補者が十分に減れば落選してしまう候補は0になりえます。
これによって死票はなくなるのです。

以上の政策により、”投票しても元に戻ってしまう”現状は解決します。
投票した痕跡が残れば、今まで無駄に思えてきた選挙に行く人も出てきましょうし、自分には関係ないと思っていた政治に興味を起こす人も出てきましょう。
合理的無知というものがあります。調べるコストに見合う対価がなければ合理的に知らないことを選択することです。
今の選挙制度では、対価は限りなく0に近い。自らの票に影響力はないから考えて投票しないし、投票の結果を自分たちの選んだものだと思えない。熟慮も責任感もなければ民衆は愚かになる。衆愚政治に陥ってしまう。1票に影響力を持たせることが出来る

政府というのは国民に監視されて初めて機能します。
今回、私は新しい選挙制度を共有したにすぎません。
この制度の何が長所足りえて、何が短所で如何にして克服すべきか、若しくは捨て去るべきか。考えなければならないのは我々です。
今まで、自明とされてきた、議員の1票。これをなくすことで、国民一人一人が持つ一票の価値が確かなものになる。
元に戻らない投票を。
ご清聴ありがとうございました。

 

 

 


では、本政策がどのくらい合理的で公正であるのか、有名な基準を用いて考えてみましょう。
アローの定理というものがあります。これを全て満たすものが最も公正な制度であるが、そんなものは存在しないというものです。
そこでは4つの基準が挙げられています。
1つ目は非独裁性。誰か特定の人の意思だけに任されていないかという意味ですが、これは満たしています。
2つ目は普遍性。どんな時でも1つの結果が出るようになっているかという意味ですが、これも満たしています。
3つ目は無関係な選択肢からの独立性。泡沫候補が出てきたからといって結果が変わってしまわないかを意味していますが、これも満たしています。
最後は全会一致性。全員がこれがいいという時はそれを選ぶかという意味ですが、これも満たしてしまいました。

今までの選挙制度ではアローの定理を満たす選挙制度はなかった。しかしこの政策は満たしている。したがってこの選挙制度は今までのすべての選挙制度よりも公正な選挙をすることが出来ると言えます。

他に、コンコルド基準というものがあります。
それぞれ二つずつみていくとどの組み合わせでも勝っている選択肢があればそれを選ぶかというのがペア勝利といい
逆に負けている選択肢があればそれは選ばないかというのがペア敗北と言います。
本制度では全体をみるとこれらを満たしません。が、個人をみると満たしています。
何故なら、個々人にとってペア勝利である人を選んでるからです。
この点においてもこれまでの選挙制度よりも優れているといえます。

 

日吉杯原稿第二稿

演題『一人多票 ~死票は議員の持ち票を弄ればなくしうる~』

この中に選挙に行ったことあるよ、という方はどのくらいいらっしゃいますか?

結構いらっしゃいますね。ここにいらっしゃる方は問題解決を目指す方ですから、選挙に行くのも当然かもしれません。

(あまりいらっしゃいませんね。ここにいらっしゃる方は問題解決を目指す方でしょうから選挙に行った方がいいと思いますが。)

選挙は問題解決に至る為の殆ど唯一にして最大の方法です。

利己的な主体の活動では解決できない問題を政府が行う。

国民は政府の舵をとる為に選挙に行きます。

選挙に行かなければ問題解決の為のスタート地点にすら立てないのです。

と、言っても選挙に行かない人は行きませんから、行きたくなるような小話を一つ。

選挙に行くと2枚の投票用紙が貰えます。

この紙に候補者の名前を書いて折りたたんで投票箱に入れるのですが、

この紙、投票箱に入れた後、自然と開くようになっています。

投票箱に入れる前に折りたたんだ紙から手を放すと自然と開くのが見れますので是非投票しに行ってみてください。

と、言っても、選挙に行かない理由というのが正にその折りたたんで「投票しても元に戻ってしまうから」なんです。

どういう意味でしょう。

例えば、あなたは選挙に行って、候補者Aに投票しました。

結果候補者Aは当選した。

良かったですね。

では候補者Bに投票していたら?

結果は変わらず、候補者Aの当選でしょう。

選挙に行っても何も変わらないのです。

投票しても、投票してない元の状態に戻ってしまう。

選挙に行く意味がないから行かない。

現状の選挙制度ではどうしてもこの問題は解決できない。

現状の選挙制度では大きく二つの手法を取り入れています。

一つは小選挙区、もう一つは比例代表です。

小選挙区とは、それぞれが大体人数が同じぐらいになるように区切った場所ごとに、1人づつ議員を選ぶやり方です。

この方法は多数派が有利で安定した政治が出来るという長所が挙げられます。

短所として死票が多く出てしまい、民意と反する結果になり得るという短所があります。

死票とはここでは、落選した候補者の得票数と当選した候補者の最低限当選するのに必要な得票数を上回った数を指します。

比例代表とは、所属している党に投票してその得票数が多ければ議席数を多く、少なければ議席数を少なく得るようにするやり方です。

一見”比例”というぐらいですから、民意の比と議席数の比が一致してよさげな気がしますが、問題もあります。

党という単位で投票される比例代表は、必要最低限当選に必要な票を超えると他の党員の当選の為に回されます。

しかし、党は一枚岩ではありません。

異なる考えの党員が同じ党に所属するのは少なくない。

同じ党にいるからといって、異なる考えの人に票が回ってしまう

いずれにしてもこの”投票しても元に戻ってしまう”問題は解決できません。

では、何故この問題が起きているのか。原因は何か。

簡単な原因だったのです。

私達は私達の代表を一人選びその代表が私達の為に議会で1票を投じている。

選挙制度についての議論はこの代表をどのように選んでいくのかについてばかり論じられてきました。

論じられてこなかった、議会で投じられる一票、ここに原因があるのです。

もしこの議会で投じられる一票が、その議員の得票数であれば、死票は、当選した議員に無駄に投じられてきた死票はなくなると言えます。

投じられれば投じられるほどその議員の持ち票に加わるのですから。

一人一票の縛りがなければ票を得る為に沢山の人を用意する必要がなくなります。

支持している議員の代わりを用意する必要はないのです。

そこで解決策を1点提示します。

選挙制度を変えるのです。

当選した議員の議会での持ち票を現在の1票から得票数票に変えます。

大枠は以上です。

100万人がその議員に投票したならば、その議員は100万票を持つ。

各議決に100万票を投じていく。

そのような状態においては追加の1票に意味が出てきます。

勿論1票というのは非常に小さなものです。それだけでは当然社会を変えることは出来ない。

しかしながら、今までは我々の投票権は、議員が決まった時点で死に、それぞれの議決までは届かなかった。

その議決まで生きて届かなかった我々の意志を生きて議会まで届けることは確実に大きな意味を持ちます。

この制度について、議員の視点からも考えていきましょう。

今までは、当選に十分な支持者を持つ議員はこれ以上何もしなかった。

議員生命を守る為には必要なく、無駄だからです。

しかし、この制度のもとでは、そうではない。

さらなる1票が更なる力になるんです。

当選に必要ではなかった少数派の意見を取り入れるインセンティブを持ちます。

議員はより問題解決をしようとするでしょう。

今までは一人を当選させることが出来ない少数派の意見も多数派の議員によって救われうるのです。

勿論この解決策もこれだけでは大きな効果を得ることは出来ません。

そこで2点の修正をします。

1点目は「全国区にする」、2点目は「成り議員代を導入する」。

1点目、全国区にする。

小選挙区というものは何を意味しているのか考える必要があります。

有権者の票を議員の1票に圧縮する為に区切っていました。

しかし、この制度の下では圧縮する必要などなく、むしろ区切った時に発生する1票の格差が生まれてしまう選挙区は廃止すべきであると考えられます。

また、少数派というのは特定の地域に集中しているわけではなく、小選挙区において無視されます。

しかし、これは国の問題です。

国会で論じられるべきでしょう。

また、国会議員が地域の代表をする必要性がありません。

国会議員は勿論支持者層の為に動くべきではありますが、それ以上に国の為に動くべきです。

少なくとも地方VS都会という対立構図のもとでのみ議論されるべきところではありません。

以上の理由から選挙区を残してはこの制度は機能を低下するので、廃止すべきであると考えます。

2点目です。成り議員代を導入する。

議員の持ち票を得票数とするこの政策では、特に議員となる条件は置かれていません。

しかし、議員が無限にいては議論は混乱を招くでしょう。

どこかで線引きはすべきでしょう。

では例えば得票数が1000以下の候補者は議員になれないとしたらどうでしょう。

それでもいいと思います。

悪くはない。

しかし、得票数が1000票と1001票では得票数の差が1票しか変わらないのに1001票も開いてしまいました。

他ではこんな大きな差はありません。

気になるので直してみましょう。

そこで導入するのが成り議員代です。

議員になるときに、得票数から何票かを支払う。

これを成り議員代と呼んでいます。

これで落選者と当選者の差は小さくなりました。

この成り議員代を導入すると更なる利点が生まれます。

議員の数を絞ることが出来ます。

議員を一人出すたびに持ち票が減っていきます。

減るぐらいなら最初から立候補させない。

大体同じ考えならば、代表をまとめてしまえば、無駄に、成り議員代を支払う必要がなくなる。

そうすれば影響力をより大きく出来る。

今までは票の為にいる議員がいました

この議員を減らすことが出来るのです。

多数派の党で起きたことは、少数派の党でも置き得ます。

少数派の主張同士というのは必ずしも矛盾を引き起こすとは限りません。

ある法案に対して主張はしているが、他はどうでもいいと思っている人達はより自分の影響力を大きくするために結託するでしょう。

このような流れによって議員数は絞られるでしょう。

以上の政策により、”投票しても元に戻ってしまう”現状は解決します。

投票した痕跡が残れば、今まで無駄に思えてきた選挙に行く人も出てきましょうし、自分には関係ないと思っていた政治に興味を起こす人も出てきましょう。

政府というのは国民に監視されて初めて機能します。

死票として無視された問題は解決に向かう。

死票がなくなれば国民の意志は反映される。

勿論この制度案にも欠点というのはあります。どのような選挙制度にも何かしらの長所短所というのはあって何を捨てるのか、それを考えていくのは有権者である国民です。

今回、私は新しい選挙制度を共有したにすぎません。

これからです。

これからより良い制度を考えていきましょう。

ご清聴ありがとうございました。

演題『一人多票 ~死票は議員の持ち票を弄ればなくしうる~』

この中に選挙に行ったことあるよ、という方はどのくらいいらっしゃいますか?

結構いらっしゃいますね。ここにいらっしゃる方は問題解決を目指す方ですから、選挙に行くのも当然かもしれません。

(あまりいらっしゃいませんね。ここにいらっしゃる方は問題解決を目指す方でしょうから選挙に行った方がいいと思いますが。)

選挙は問題解決に至る為の殆ど唯一にして最大の方法です。

利己的な主体の活動では解決できない問題を政府が行う。

国民は政府の舵をとる為に選挙に行きます。

選挙に行かなければ問題解決の為のスタート地点にすら立てないのです。

と、言っても選挙に行かない人は行きませんから、行きたくなるような小話を一つ。

選挙に行くと2枚の投票用紙が貰えます。

この紙に候補者の名前を書いて折りたたんで投票箱に入れるのですが、

この紙、投票箱に入れた後、自然と開くようになっています。

投票箱に入れる前に折りたたんだ紙から手を放すと自然と開くのが見れますので是非投票しに行ってみてください。

と、言っても、選挙に行かない理由というのが正にその折りたたんで「投票しても元に戻ってしまうから」なんです。

どういう意味でしょう。

例えば、あなたは選挙に行って、候補者Aに投票しました。

結果候補者Aは当選した。

良かったですね。

では候補者Bに投票していたら?

結果は変わらず、候補者Aの当選でしょう。

選挙に行っても何も変わらないのです。

投票しても、投票してない元の状態に戻ってしまう。

選挙に行く意味がないから行かない。

現状の選挙制度ではどうしてもこの問題は解決できない。

現状の選挙制度では大きく二つの手法を取り入れています。

一つは小選挙区、もう一つは比例代表です。

小選挙区とは、それぞれが大体人数が同じぐらいになるように区切った場所ごとに、1人づつ議員を選ぶやり方です。

この方法は多数派が有利で安定した政治が出来るという長所が挙げられます。

短所として死票が多く出てしまい、民意と反する結果になり得るという短所があります。

死票とはここでは、落選した候補者の得票数と当選した候補者の最低限当選するのに必要な得票数を上回った数を指します。

比例代表とは、所属している党に投票してその得票数が多ければ議席数を多く、少なければ議席数を少なく得るようにするやり方です。

一見”比例”というぐらいですから、民意の比と議席数の比が一致してよさげな気がしますが、問題もあります。

党という単位で投票される比例代表は、必要最低限当選に必要な票を超えると他の党員の当選の為に回されます。

しかし、党は一枚岩ではありません。

異なる考えの党員が同じ党に所属するのは少なくない。

同じ党にいるからといって、異なる考えの人に票が回ってしまう

いずれにしてもこの”投票しても元に戻ってしまう”問題は解決できません。

では、何故この問題が起きているのか。原因は何か。

簡単な原因だったのです。

私達は私達の代表を一人選びその代表が私達の為に議会で1票を投じている。

選挙制度についての議論はこの代表をどのように選んでいくのかについてばかり論じられてきました。

論じられてこなかった、議会で投じられる一票、ここに原因があるのです。

もしこの議会で投じられる一票が、その議員の得票数であれば、死票は、当選した議員に無駄に投じられてきた死票はなくなると言えます。

投じられれば投じられるほどその議員の持ち票に加わるのですから。

一人一票の縛りがなければ票を得る為に沢山の人を用意する必要がなくなります。

支持している議員の代わりを用意する必要はないのです。

そこで解決策を1点提示します。

選挙制度を変えるのです。

当選した議員の議会での持ち票を現在の1票から得票数票に変えます。

大枠は以上です。

100万人がその議員に投票したならば、その議員は100万票を持つ。

各議決に100万票を投じていく。

そのような状態においては追加の1票に意味が出てきます。

勿論1票というのは非常に小さなものです。それだけでは当然社会を変えることは出来ない。

しかしながら、今までは我々の投票権は、議員が決まった時点で死に、それぞれの議決までは届かなかった。

その議決まで生きて届かなかった我々の意志を生きて議会まで届けることは確実に大きな意味を持ちます。

この制度について、議員の視点からも考えていきましょう。

今までは、当選に十分な支持者を持つ議員はこれ以上何もしなかった。

議員生命を守る為には必要なく、無駄だからです。

しかし、この制度のもとでは、そうではない。

さらなる1票が更なる力になるんです。

当選に必要ではなかった少数派の意見を取り入れるインセンティブを持ちます。

議員はより問題解決をしようとするでしょう。

今までは一人を当選させることが出来ない少数派の意見も多数派の議員によって救われうるのです。

勿論この解決策もこれだけでは大きな効果を得ることは出来ません。

そこで2点の修正をします。

1点目は「全国区にする」、2点目は「成り議員代を導入する」。

1点目、全国区にする。

小選挙区というものは何を意味しているのか考える必要があります。

有権者の票を議員の1票に圧縮する為に区切っていました。

しかし、この制度の下では圧縮する必要などなく、むしろ区切った時に発生する1票の格差が生まれてしまう選挙区は廃止すべきであると考えられます。

また、少数派というのは特定の地域に集中しているわけではなく、小選挙区において無視されます。

しかし、これは国の問題です。

国会で論じられるべきでしょう。

また、国会議員が地域の代表をする必要性がありません。

国会議員は勿論支持者層の為に動くべきではありますが、それ以上に国の為に動くべきです。

少なくとも地方VS都会という対立構図のもとでのみ議論されるべきところではありません。

以上の理由から選挙区を残してはこの制度は機能を低下するので、廃止すべきであると考えます。

2点目です。成り議員代を導入する。

議員の持ち票を得票数とするこの政策では、特に議員となる条件は置かれていません。

しかし、議員が無限にいては議論は混乱を招くでしょう。

どこかで線引きはすべきでしょう。

では例えば得票数が1000以下の候補者は議員になれないとしたらどうでしょう。

それでもいいと思います。

悪くはない。

しかし、得票数が1000票と1001票では得票数の差が1票しか変わらないのに1001票も開いてしまいました。

他ではこんな大きな差はありません。

気になるので直してみましょう。

そこで導入するのが成り議員代です。

議員になるときに、得票数から何票かを支払う。

これを成り議員代と呼んでいます。

これで落選者と当選者の差は小さくなりました。

この成り議員代を導入すると更なる利点が生まれます。

議員の数を絞ることが出来ます。

議員を一人出すたびに持ち票が減っていきます。

減るぐらいなら最初から立候補させない。

大体同じ考えならば、代表をまとめてしまえば、無駄に、成り議員代を支払う必要がなくなる。

そうすれば影響力をより大きく出来る。

今までは票の為にいる議員がいました

この議員を減らすことが出来るのです。

多数派の党で起きたことは、少数派の党でも置き得ます。

少数派の主張同士というのは必ずしも矛盾を引き起こすとは限りません。

ある法案に対して主張はしているが、他はどうでもいいと思っている人達はより自分の影響力を大きくするために結託するでしょう。

このような流れによって議員数は絞られるでしょう。

以上の政策により、”投票しても元に戻ってしまう”現状は解決します。

投票した痕跡が残れば、今まで無駄に思えてきた選挙に行く人も出てきましょうし、自分には関係ないと思っていた政治に興味を起こす人も出てきましょう。

政府というのは国民に監視されて初めて機能します。

死票として無視された問題は解決に向かう。

死票がなくなれば国民の意志は反映される。

勿論この制度案にも欠点というのはあります。どのような選挙制度にも何かしらの長所短所というのはあって何を捨てるのか、それを考えていくのは有権者である国民です。

今回、私は新しい選挙制度を共有したにすぎません。

これからです。

これからより良い制度を考えていきましょう。

ご清聴ありがとうございました。