命の授業について考える

これは一度ツイッターで書いたものを纏めてるので不自然な箇所があり既に別箇所であることを示す

(2419字)

「命の尊厳を知らない人がいる。彼らはいじめをしたりリスカをしたり食べ物を残したりする。命の尊厳を知らないのは自ら命を奪う経験を持たないからだ。従って彼ら小学生に鶏を育てさせ屠殺させることで命の尊厳を知ってほしい(要約)」賛成か反対か。この要約は偏見的であることを示しておく。

これに私は反対であるが、限定せず論を進める。
まず小学生には早すぎるのではという意見が出る。トラウマを植え付けてしまったり、何が起きているのか理解出来ないのではという理由からである。これは抑もある一定の年齢以上ならば良いという理由はなく、程度の問題にしかなりえない。

次に、何故命の尊厳が知られることが重要であるか考えたい。何故人を殺してはいけないかの理由はAスミスの道徳感情論で現れる共感(sympathyの意)で説明しうる。共感とは相手の感情を外見から判断して自らも同様な感情になることと定義しておく。

人が殺されるのをみると共感によって、自らも殺されるように感じる。自らが殺されるのは嫌である。従って人が殺されるのを忌避し、人を殺してはいけないという倫理と法が生まれる。同様に他の命の尊厳が奪われると自らも奪われたように感じ忌避する。よって人は命の尊厳が知られる方がよいと感じる。

従って命の尊厳を理解するには命の喪失ではなく共感力を高める必要がある。しかし、命の授業は共感に訴えることは出来ても共感力を育てることは出来ない。命の尊厳を知らない人は抑も共感力に欠けている可能性がある。また共感力を持つ者は命の尊厳を既に理解している可能性が高いだろう。

従って命の授業は本来学ばせたい対象に届かず、そうではない人に心的障害を与えるだけになってしまう。ここで命の授業は命の尊厳を学ばせる効果は無いのではと疑問が抱かれる。しかしながら勿論このような授業で潜在していた共感力が顕在し命の尊厳を理解することが出来る人もいるだろう。

仮に他に手段が無ければその小さな効果でもする必要はあるという主張は出うる。他の手段を考えると、屠殺させるのではなく屠殺場の映像を見せるのはどうか、という意見が出うる。しかしあくまでも関係のない存在の死が開眼させる程の力を持つとは考えにくい。その手で育てることが鶏を我々にしている。

鶏を我々にすることで共感力の作用を活発にし、開眼を手助けしている。従って映像は実際の屠殺の代わりにはなりえない。ではどうすれば良いか。共感力を伸ばせば良い。しかし実際の、しかも曖昧な、力を伸ばすことは容易ではない。このような時はテンプレートを導入するのが良い。

例えば数学力、計算力を伸ばす場合実際にその力を伸ばす以外にも公式などを覚えて計算量を減らすなどして見かけ上の計算力を伸ばすことが可能になる。このように共感力の代わりに感情のテンプレートを導入することで共感力を伸ばすのと同様のことを起こす。テンプレートとは小説などの創作である。

他人の感情が分からないならば他人の感情は例えばどのようかを学べばよく、心理描写が描かれている小説などの創作を読ませるのが効果的だろう。これならば、鶏を殺させてそれが食べられなくなるような弊害は殆ど起きないだろう。また、実際に命が奪われることもない。

次に命の尊厳の理解が諸問題の解決に繋がるかに疑問を抱く。まず残飯問題だが、普通食品が不味い、量が多いなどの理由が主であり命の尊厳の無理解が原因とは考えられにくい。寧ろ逆ではないか。よいモデルケースとしてジャイナ教徒がいる。

彼らは吸い込んだり踏んだりして虫から命を奪わないようにマスクや箒を携帯している。また食べるものも自然落下した木ノ実などを主食としている。しかしそれでも不完全で全ての命の尊厳を尊重し餓死することが理想とされている(要出典)。これ程極めても結局は自らの命を軽視してしまっている。

そして餓死という結果は残飯問題の解決と逆方向にあるのではと考えうる。次にいじめ問題であるが、これは関係しうるかもしれないがこれは共感力の限界で反証出来る。共感による作用は相手の負の感情により自らの感情が負になることだが、その際自らの感情がより正に向かえば打ち消せてしまう。

また、自らの感情は他人の感情に優先される。単純に他人の感情が自らの身の危険に繋がるので忌避しているだけに過ぎない。従ってこの正の感情の上回りは容易に起こりうる。従っていじめ問題は解決しえない。またリスカだが、命の尊厳をこのような形で習得しても自死を回避できないのは先の事例で示した

また、自らの感情は他人の感情に優先される。単純に他人の感情が自らの身の危険に繋がるので忌避しているだけに過ぎない。従ってこの正の感情の上回りは容易に起こりうる。従っていじめ問題は解決しえない。またリスカだが、命の尊厳をこのような形で習得しても自死を回避できないのは先の事例で示した

従って命の尊厳の理解が諸問題の解決に繋がらないことを示した。
また、この授業のような暴力の強制は暴力に目覚めさせてしまうだけで悪化するのではという意見があった。この論理は別の場所で適用すると危険である。例えば暴力の表現が暴力を促すために規制されるべきだは同じ論理である。

しかし、ここでの意見の重要な点は強制していることで、ここまで含めると表現の自由に適用しても問題なく、また見ない権利を保障する理由にもなりうる。
最後に命の授業の構造的矛盾を示す。人間の命を奪わせたくないから、鶏の命を奪わせてやめさせよう。という構造はまず、鶏の命を軽視している。

次にやめさせたい行為を擬似的にでも行わせてしまう点について矛盾が起きている。余談だが殺されることは鶏にとっても生存競争上有益であるからその点で無駄に可哀想がられることは無意味である