納涼紫紺杯にて優勝した弁論の原稿

お疲れ様です。この度、演題『要らない仕事』で優勝しましたTempanです。今回の原稿も公開します。後期の弁論大会で使えるかもしれない程度には出来た原稿らしいのでどうぞお読みください。

要らない仕事ってありますよね。ありませんか?要らない仕事。やってる人買ってる人売ってる人全てが得しない仕事。ありますよね。それどころか関与してない人でさえ、損する仕事。ありますよね。

そう例えば、AVのモザイク規制、そうでしょ。エロ同人誌の黒塗り修正、あれもそう。要らない仕事だ。

 

あれは別に作ってる人が好き好んでやってるわけじゃない。演出でボカすインスタのそれじゃない。作品がよくなるわけじゃないのに強制されてやっている。

買ってる人も好き好んで修正されたものを買うわけじゃない。誰が劣化した作品を、その劣化するための代金もコミコミで買わにゃならんのか。

しかも、しかもだよ。売っても買ってもいないのに、その仕事が存在するだけで損する人がいる。我々だ。ここにいる我々。弁論を話す私とそれを聴くあなた方。我々のこの行動は表現の自由に守られている。それだけじゃない。映像画像歌文章。私たちの行動には憲法21条表現の自由によって守られている行為はたくさんある。

 

この表現の自由がこの要らない仕事によって脅かされてんだ。

 

表現の自由というのはただただ、我々が幸福になるためだけのものじゃない。我々は表現によって政府のあり方を批判し正すことができる。いや、我々は暴力による破壊を除いてはこの表現によってのみでしか政府のあり方を正せられない。我々は政府の暴走を止める為に筆を奪われてはいけないんだ。

 

表現の自由のためには検閲は絶対にさせてはいけない。この要らない仕事ってのは検閲なんだよ。誰かがある表現を妥当か否か判断してしまう。それはもう表現の自由はない。表現に妥当ではない表現なんかないし、あったとして誰が勝手に判断する権利なんかある。君か?俺でもない。表現の自由とはむしろ妥当ではないとされる表現こそ守られなければ意味がない物なんだ。

じゃあ、この憲法21条、表現の自由を妨げる要らない仕事は何故存在するのか。

 

刑法175条、猥褻物頒布等の罪を定めた法律があるから。猥褻物を配っちゃだめだよっていう法律なんだが、正直なところモザイクが付く前は猥褻だが付いた後は猥褻じゃないという判断はよく分からない。この猥褻性ってのが曖昧であるってのも問題なんだよね。彼らがそう言えば猥褻っていう状況は表現の自由にとっては非常にまずい。

で、この法律は表現の自由を妨げてまで何を守りたかったのか。三つほど考える。

 

一つは青少年、18歳未満の子供の健全な育成をするため。じゃあ、本当に見なければ健全に育つのか、そんなのおかしいじゃん。性的なものを見なければ健全に育つっていうのは、性的なものがはなから悪だと決めつけてるから生まれる発想じゃないか。性的なものを知らないのが健全だとするのがおかしい。我々は生まれるときには必ず性行為によって生まれる。人殺しや盗みとは違うんだよ。社会が続いていくには皆がやらなければいけないことを教えない、知られないようにするのは健全な社会だといえるのか。我々はむしろ健全な青少年の育成の為に、娯楽であるAV等とは別に教育の一環として性的なものに触れさせる機会を設けるべきだ。

 

二つ目、性に関する倫理感の保護。たしかに性的なものが溢れていると倫理観が失われるのではないかという懸念はわからないこともない。だけど、そもそも、我々に道徳を強制するのは、憲法に定められている精神の自由、思想の自由に反しているといえる。学校とかでそういう道徳的なことを教えるっていうのは国を運営していく上では大事だし、内容が不味いなら批判すればいいし、聞かなければいい。聞いた上で内面化するかしないかは自由だ。けれど僕たちの耳と目をふさぐことで実現することは間違ってる。取捨選択することすらできない。しかもモザイクがついてるつって何が変わんのか。何してるかは明らかだし、こういうことをしちゃだめだよという為の役割を為していない。

 

三つめ、見たくない人の表現からの自由。まあ確かにですよ、見たくない表現ってのはある。見たくない人にまで見せる権利はない。だからゾーニングはすべきだ。でもやってるじゃん。区画分けしてさ。その上で本編に修正かけろってのは無茶じゃないか?嫌なら見なきゃいい訳。

 

と、ここまで考えてみると、本当はこの法律は、倫理でも子供でも女性でもなくて、ただただ、私が、見ていて不快だから、存在するのをやめろ。としか言ってないんだ。なんでそんな法律が存在しているのか。

 

性の忌避感、嫌悪感といった感情があるからだ。性的なものが現れるのを忌み嫌う。自分がそれによって生まれたことを否定するかのように臭いものに蓋をしてしまう。その本能は確かに役に立つことも

あります。そこらじゅうで粘膜を触れ合わす、というのは衛生的にはよろしくない。交尾の相手を厳選する為に距離を置くのも戦略としては正しい。じゃあ出版物はどうなのか。出回っても感染はしないし、見てる人間に見るなというのは生存競争にはなんら関係がない。

 

性の忌避感、エッチなものに蓋をしてるその姿勢がこの弁論で述べたい問題なんだ。皆さんは、ここまで卑猥なものを規制して当然じゃないかなどと思ってるかと思います。まともじゃない表現が検閲されてても仕方がないと。でも、性的なもの、猥褻なものというのは範囲が非常にあいまい。すぐに範囲を拡大していく。実際男性向け同人誌なんかだと去年の基準で修正された本が今年の基準ではアウトで販売停止になったという事例もある。これは検閲の範囲が広まりうる証拠でもある。性的なものはそうでないものにも飛び火しうる。グーグルプレイでは「わたし茄子で飛びます」というゲームがあったがアップルストアでは「私猫で飛びます」というゲームに変わってしまった。これはナスが男性器の暗喩として扱われていたからだ。でもナスはナスだろう。我々が性的でないと思ってても彼らがどう思うか次第なんだ。

 

刑法175条、それは結局のところ、不快感というものから守る、というものに過ぎない。勿論、人が不快にならずに済むことは大事である。しかしそれは違憲になってでも守るべきものじゃないし、自由を押さえつける公共の福祉として妥当であるものでもない。

 

では結局我々は何をしなければいけないのか。我々はこの性の忌避感なるものがいかなるものか、しっかりと直視して、そしてこの本能にどのくらい従うべきなのか検討しなければならない、そして、もしそこまで従うべきではないと結論付けられたなら、刑法175条を改めるべきだ。そして常に我々の権利が保持される為に不断の努力として、声をあげ続け監視し続けなければならないのだ。

 

最後に、皆さんの弁論が、表現が至極まともなもので、検閲とは程遠いものなのだろう、ということは存じ上げております。しかし、いやだからこそ、我々はこの検閲を阻止しなければならないのです。この検閲はいずれ広がります。もしここで、あなたが当事者ではないからと声をあげなかったら、あなたが検閲され口をふさがれんとするときに誰が声を挙げようか。あなた以外の誰もがもう口をふさがれているというのに。